田宮五郎。 田宮五郎

田宮二郎の白い巨塔への人生を賭けた情熱が凄すぎる!

田宮五郎

1967年1月13日、東京都生まれ。 ・柴田英晃。 父は俳優の 、母は元女優の藤由紀子、兄は俳優の柴田光太郎。 東京農業大学農学部を卒業後、飲食業・運送業など様々な仕事を経験し、2006年、39歳にしてテレビドラマ「人生は」 NHK で俳優デビュー 当時のは田宮英晃。 同年、大河ドラマ「が」 NHK に黒田長政役で出演した。 07年、田宮五郎に。 09年には、映画「カンナさん大成功です! 」 井上晃一監督 、「」 崔洋一監督 に出演。 以降もテレビドラマなどで活躍したが、12年4月にで倒れ緊急手術の後、ができるまでに回復。 同年12月にはリハビリ専門病院を退院していた。 14年11月6日、くも膜下出血により。 享年47。 2014-11-12 出典 知恵蔵miniについて.

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会社概要 | 田宮印刷株式会社

田宮五郎

妖艶な太地喜和子さんや、楚々とした美しさが際立つ島田陽子さんが花を添えた田宮二郎さんの「白い巨塔」を、全部は見ていませんが、田宮さん演じる財前五郎は、存在感があるのに、へんな気負いがありません。 田宮二郎さんは、俳優業のかたわらビジネスを始め、英語は堪能。 自然とにじみ出る知性などが「白い巨塔」の財前五郎に反映、時に冷淡、狂気ある複雑な心情の役柄を見事に演じていますが、後になって躁うつ病を患いながらのドラマの撮影だったとは、そのことを知ると複雑です。 田宮二郎さんのドラマさながらの最後は、ただ残念としか言いようがありません。 そんな田宮二郎さんには息子さんが二人いました。 スポンサドーリンク• アナウンサーで柴田光太郎? 柴田 光太郎(しばた こうたろう) 本名:柴田 英光(しばた ひでみつ) 出身地:東京都 生年月日:1966年1月13日 俳優で司会者、テレビリポーターとしても活躍していましたが、現在は高等学校の教師をしています。 ブレイブ所属。 出身学校:学習院大学文学部英米文学科卒業、学習院大学大学院人文科学研究科イギリス文学専攻博士前期課程を修了 秋篠宮文仁親王と、黒田清子さんの夫の黒田慶樹さんとは学習院初等科からの同級生です。 英語は、田宮二郎さんが教えてくれました。 あんなに厳しい父は見たことがなかったそうです。 1991年、学習院中等科、高等科で英語科教諭を務めます。 1994年、学習院中等科、高等科の教職を3年で辞め、フランスに語学留学します。 1995年10月、フジテレビ「おはよう! ナイスデイ」のレポーターとして芸能界にデビューします。 1998年8月、NHK「水曜シリーズドラマ 必要のない人」で、俳優としてデビュー。 2002年3月、10歳下の福祉関係の仕事をしている女性と結婚し、1男2女を儲けます。 2007年4月、広尾学園高等学校で立ち上げから8年間、英語科教師(非常勤講師)を務めます。 現在青稜高等学校英語講師 非常勤講師 を務めていて、芸能活動は完全に引退したわけではなく、教職を第一とし、教職業務に支障のない範囲で芸能活動をしています。 朝7時半に学校に出て、夜は11時に帰る毎日で家にあまりいません。 スポンサドーリンク 田宮二郎息子画像は?浅野ゆう子 田宮 五郎(たみや ごろう) 本名:柴田 英晃(しばた ひであき) 旧芸名、田宮 英晃(たみや ひであき) 生年月日:1967年1月13日~2014年11月6日 出身地:東京都 出身学校:東京農業大学農学部畜産学科 身長:186cm 体重:85kg スリーサイズ、B97、W87、H104 靴のサイズは29cm 趣味・特技はトロンボーンとピアノ 2006年7月1日、NHK土曜ドラマ「人生はフルコース」で芸能界にデビューをします。 幼少のころから俳優に憧れていましたが、田宮二郎さんから「俳優になるなら人間を知ってから」と言われていた通り、大学生の頃から日本語教師や住み込みの新聞配達や料理人、大工や造園業など60種類以上も職業を経験しています。 2002年6月から2003年4月まで大田市場正門前で「喰処かぶき」を経営していたこともあります。 28歳の時に中尾彬の姪と結婚しますが、1女をもうけるも約8年後に離婚しています。 186cmという長身で、多くの経験を積み俳優としてこれからが大きな期待をされていました。 2006年、39歳で俳優デビューします。 2006年、NHK大河ドラマ「功名が辻」に黒田長政役で出演。 浅野さんとはデビュー前からの知り合いで、2007年から交際していました。 2012年4月にくも膜下出血で倒れます。 それ以降、病気療養をしていましたが、2014年11月2日、早朝に交際中の浅野ゆう子さんの自宅で、くも膜下出血で倒れ、東京都内の病院に入院。 浅野ゆう子さんに看取られ11月6日未明にお亡くなりになられます。 享年47 浅野ゆう子さんは、田宮さんより6歳年上になり、浅野さんの身長は167cmです。 田宮二郎の白い巨塔 最終回動画 田宮二郎さんの「白い巨塔」は、フジテレビで1978年6月3日~1979年1月6日に放送され、全部で31話になります。 毎週土曜日夜9時より1時間枠でした。 田宮二郎さんは、放送が終わるより前の、1978年12月28日に猟銃により自害します。 当時、ワイドショーなどで騒がれましが、この時点でドラマの未放映回が2回分残っていました。 胃潰瘍だと思って手術を受ける財前五郎ですが、実はがんであることを自分でわかりますが、その時には、もう手遅れでした。 優秀な外科医と称され、まだこれから医師として活躍できるであろう、最後は、田宮二郎さんと重なってしまいます。 今のドラマと比べると、あまり予算がないような作りに見えますが、それを差し置いても、役者人の存在感で、40年の時を経ても、印象の残るものとなっています。 まとめ 柴田光太郎さんは、フジテレビでレポーターをしていた時の印象が強かったのですが、明るく、レポーターに向いている雰囲気だと思ったのですけれど、年齢を重ねたら、役者さんの方が向いていそうですね。 草刈正雄さんのように、晩年になって活躍が出来たら良いですね。 田宮二郎さんについてはコチラをご覧ください。

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田宮五郎|沢山の経験を糧に俳優デビュー|新聞奨学生コラム

田宮五郎

来歴 [ ] 出生からデビュー [ ] 出身。 生後4日での大番頭だった父を失い、戦後まもなく母とも死別。 そのため幼少から高校時代にかけてはにて親族に育てられる。 を経て経済学科卒業。 学生時代は、シェイクスピア劇研究会に所属し、志望だったが、大学在学中の(昭和30年)、主催の「」で優勝したことがきっかけで、演技研究所10期生として入社。 同期には・がいた。 (昭和31年)、「ミスタースマートコンテスト」で空手を披露し優勝 、ファッション雑誌『』の専属モデルに応募し合格、以後数年間は俳優業を兼ね活動する。 (昭和32年)に本名の「柴田吾郎」でデビュー。 (昭和34年)、大映社長のがオーナーを兼務するの強打者・にあやかりたいという永田の意思に強制される形で「田宮二郎」と改名。 長らくが多かったが、(昭和36年)に『』(監督、原作)の演技で注目を集めた。 同年秋にと共演した『』(監督、原作)にて勝の相棒「モートルの貞」役に 抜擢 ( ばってき )され、人気スターの仲間入りを果たす。 「モートルの貞」は『』(田中徳三監督、今東光原作)で絶命するが、その後シリーズ化が決定、田宮は3作目から貞の弟「清次」を演じ「勝-田宮」コンビが復活、長きにわたる人気シリーズとなった。 またこれらの演技が評価され、(昭和36年)のを獲得した。 端整なルックスと、身長180cmでスリムでありながら筋肉質であることに加え、甘いから冷酷なエリート、ユーモラスな拳銃使い、ヤクザ、欲望のためなら手段を選ばないまでもこなす演技力から、などにも主演、 大映の看板俳優として活躍した。 またの相手役として名画を多く残した。 (昭和40年)に『』『』などで共演したと結婚。 (昭和41年)、『』(監督、山崎豊子原作、大映作品)で役を演じたことで、その名声は決定的なものになり、「昭和のクールガイ」と呼ばれた。 同じ大映に所属していたビッグスターとは一度も共演していない。 理由は社長・永田雅一の方針によるものと言われている。 映画界追放 [ ] (昭和43年)、映画『』(監督、原作、大映作品)の宣伝ポスター(原案)において、主役(130シーン中94シーンに出演)の田宮の名が4番手扱いになっていた。 その序列は、若尾文子(大映の看板女優)がアタマ、2番目が(専属の女優、田宮より年下でありキャリアも後輩)、トメ(最後)が(や松竹で活躍後、当時は独立系の映画を中心に出演)で、田宮はトメ前となっていた。 いくつもの主演シリーズを持っていた田宮は誰が見ても大映現代劇のトップ男優であり、彼にとってこの序列は譲れない大問題であった。 田宮は撮影所長に抗議したが、「この作品はとして売りたいからこうなった。 私の首にかけてもこの序列を変えることはない」と断られ、その場で副社長の永田秀雅(永田雅一の息子)に電話。 すると「役者ごときが注文をつけることではない」と叱責され再び却下されたことからとさえ言われるに対抗するためか、のを伴い、永田雅一と直談判する。 すると「主役のお前がアタマに書かれるのが当たり前や」となった。 しかし「首をかけてもと撮影所長に言われたのだから、俳優の私が辞める(か所長が辞める)しかない」と田宮が言うに及び、雅一は「おい、思い上がるのもいい加減にしろ。 お前は・クラスの役者だと思っているんだろうが、まだクラスの役者だ。 人事に口を出すな」と憤慨。 結果的に刷り直したポスターの序列は希望通り田宮がトップとなったが、雅一は契約を残したまま、田宮を解雇した。 これにより、ただでさえスター不足で経営難の大映はますます屋台骨が傾くことになった。 記者会見では記者から「田宮を辞めさせて興行的に困らないか」との声が社長に飛んだ。 しかし永田は「失礼な、それほどの大物じゃない」と反論、さらにを持ち出し、他社の映画にもにも田宮を使わないように通達した。 テレビ界進出と復活 [ ] 映画界から完全に干されてしまった田宮は、家族を養うために舞台俳優・司会者・として活動し、片や、回りなどの地方巡業もしていた。 (昭和44年)からは、で放送が始まったクイズ番組『』の初代司会を務め、映画でのクールな雰囲気から一転したソフトなキャラクター、加えて軽快で巧みな話術と的確な番組進行が視聴者の好感を呼んだ。 また同年、の音楽番組『』の司会も務めた。 映画俳優としての仕事ができず、このようなテレビの仕事をすることは、この時代の映画人にとって不本意とされていた。 (昭和44年)6月で大映と契約満了。 のから誘われ 、主演映画『』に役で出演し、映画界へカムバックを果たした。 苦境を乗り越えたことで自信を付けた田宮は、永田雅一に 啖呵 ( たんか )を切るまでになっていた。 そこで、(昭和46年)に夫人を社長に据え立ち上げた自身の個人プロダクション「田宮企画」で『』を製作・主演をしたが、ヒット作とはならなかった。 一方の大映は1971年(昭和46年)に。 それをきっかけにすでに斜陽であったの観客動員数はさらに大きく落ち込み、今に続くテレビ時代となる。 (昭和47年)には系ドラマ『』でテレビドラマへ本格進出。 その後も『』『』などの や、脚本『』などの話題のドラマに主演して、立て続けにヒットを飛ばし、ドラマ界でも花形スターの座を獲得。 その頃になると、自身を「日本のになる」と公言しはじめ、ビジネスに強い興味を持ち、政財界とも接触を持つようになって、ゴルフ場やマンションの経営を行ったが失敗。 (昭和52年)には日英合作映画『イエロー・ドッグ』(松竹)の製作・主演も行ったが不入りに終わり、多額の借金を抱えてしまう。 大映時代の過労でを再発させてしまい、注射を打ちながら撮影を続けたこともあった田宮だが、大映退社後は更に休む間がなくなっていたために次第に精神を病み、同年3月には精神科医のからと診断された。 しかし、田宮自身は病気を認めようとせず、治療の薬も拒否したため夫人は飲んでもらおうと必死になったという。 また、付き人に段ボールの箱ごと育毛剤を買いに行かせたり、ドラマの撮影シーンで髪の毛が濡れることを嫌がるなど、頭髪についても悩んでいたという。 『白い巨塔』 [ ] (昭和52年)冬、TBSから田宮のキャスティング権を得たから企画を求められた田宮は、原作の途中までしか映画化されていなかったのドラマ化を強く希望した。 これは3度目の提案であった(1度目は〈昭和44年〉、2度目はその数年後にドラマ化の企画をに持ち込んだ経緯があったが、最初は五社協定により、2度目はスポンサーの了承が出なかったために実現しなかった)。 で主演として財前五郎を演じて以来、田宮は常に高みを目指す財前の姿に自分を重ね、自身の本名と同じ「ごろう」であったこともあり、財前五郎を演じるのは自分しかいない、原作のラスト・財前の死までを演じ切りたいと思い続けていた。 かつて映画化の際には原作の財前の年齢設定よりずっと若かった田宮も、この時にはほぼ同じ年齢であり、機も熟していた。 田宮は原作者・に直談判し、快諾を得て(昭和52年)11月にはドラマ化が決定した。 撮影のさなかの債務・躁鬱病との闘い [ ] (昭和52年)12月に入ると、躁状態に入った田宮は入れ込んでいたドラマ化への関心が薄れ、いかがわしいビジネスに熱中し始める。 田宮の事業熱が収まらないまま、は(昭和53年)に撮影開始。 を自ら手配するなど、高いテンションで撮影に臨み、6月3日放映の初回は18. 一方で私生活は荒れ、 執拗 ( しつよう )な債権取立ての中で、妻に不動産などの書類の引渡しを求めて激しく言い争うようになっていた。 ドラマ撮影現場でも次第に彼の不遜な態度に対して不安が広がり、スタッフがその火消しに躍起になったという。 さらには「(一説にはだとも言われている)の採掘権を取得した」と主張して突如へと1週間出かけ、あわや撮影中止になりかけることもあった。 また、撮影開始の辺りから田宮企画にから頻繁に金品要求があり、「金を払わないととの不倫関係をマスコミに漏らす」「の宣伝をしてやる」といった内容の電話がかかるようになり、6月には田宮から相談を受けていたが捜査に乗り出す展開にまで発展した(捜査の結果、立件には至らなかった)。 第18話まで撮影したところで撮影は1カ月の休暇に入り、田宮は7月29日にへ旅行に出発。 戻って来ないのではないかという周囲の心配をよそに9月8日に帰国したが、その時に田宮は鬱状態に入っていた。 9月17日から後半の収録が始まったが、テンションが高かった旅行前とは一転し、田宮は泣き崩れてばかりでセリフが頭に入らなくなっていた。 妻やスタッフが必死に彼を励まし続け、共演者の協力もあって撮影は11月15日に無事終了。 財前五郎の死のシーンに際して、田宮は3日間絶食してすっかり癌患者になりきり、財前のも自らが書き、それを台本に加えさせた。 さらに、全身に白布を掛けられストレッチャーに横たわる遺体役をスタッフの代役ではなく自分自身でやると主張してストレッチャーに乗った。 収録後には「うまく死ねた」とラストシーンを自賛したという。 この時期の田宮の奇行に関しては、などにとして複数の記事が掲載された。 一つはいわゆる詐欺にだまされ、巨額の借金を負っていたという説。 また、現実と役柄の境界が不明瞭となり、航空機にて急病人が出て乗務員が医師を捜すと、たまたま同乗していた田宮が「医師の財前だが」と名乗り出たというもの。 さらに、友人に電話で「を買い取った」と発言したり、自宅を訪れた芸能記者に対し、電話機を指差しながら「この電話はと直につながっているのですよ」と述べたという話もある。 息子の柴田光太郎は(平成21年)、『』(テレビ朝日)に出演した際に金銭問題を含めた醜聞の内容の大半を否定しているが、(平成25年)に『』の企画で行われた・・柴田光太郎による 鼎談 ( ていだん )で、『白い巨塔』収録中に田宮が頻繁にM資金取引の電話をしていたことを、財前五郎の妻役で出演していた生田が証言している。 生田によると、田宮は撮影の合間によくフジテレビの食堂で電話をかけていたが、使用していたのはしか入れられないであり、生田は田宮からの要請で通話中は両替に走っては傍で通話用の10円玉を手のひらに載せて立っていたため、通話内容がはっきりと聞こえたという。 これを見かねて田宮にM資金の支払いを諦めるよう説得すると、「できない。 来年(〈昭和54年〉)になったらどうにかなるよ。 でも、来年はないかな」と死をほのめかす返答をしたため、生田は怖くなってプロデューサーのに相談したという。 ドラマの終わりと共に [ ] ドラマ撮影の間、9年に渡って司会を務めてきた『クイズタイムショック』を(昭和53年)9月28日放送分をもって降板。 病状が改善されないこともあり、自ら申し出たもので、司会者はへ引き継がれた。 『白い巨塔』撮影終了後の田宮はすっかり虚脱状態になり、「財前五郎の後に、どんな役を演じたらいいかわからない」とプロデューサーの小林俊一に漏らすようになっていた。 しかし、自殺3日前の12月25日には同ドラマの仕事仲間3人(田宮と花森ケイ子を演じた、プロデューサーの小林俊一)で食事をしており、太地と小林はこの時の田宮の様子について、「かなりの上機嫌で、自殺する気配など全く感じられなかった」と語っている。 また、同ドラマでを演じたも12月下旬に田宮とへ飲みに行っているが、高橋によると、その時も田宮は機嫌が良く、自殺の兆候など全く見られなかったという。 衝撃の死 [ ] ドラマ『白い巨塔』の放映が残り2話となっていた(昭和53年)の午前中、南青山のマンションに住む田宮夫人から連絡を受けた田宮の付き人は、体調を崩した田宮夫人の母親を病院に連れて行きその後の田宮邸に戻ってから、そのことを田宮に報告する。 生前の田宮の最後の言葉は、昼近くに付き人が聞いた「お腹が空いた」と言う言葉だった。 付き人は田宮のためにの洋食店で弁当を買って帰った。 そして1階のキッチンでお茶を入れ、弁当と梅干しを載せたお盆を持って2階に上がり、寝室の前で声を掛けたが応答がなかった。 しばらくしてドアを開けると田宮はベッドの上に仰向けで横たわり、米国パックマイヤー社製の上下2連式用でを遂げていた。 43歳だった。 付き人が発見した時、田宮は苦悶の表情を浮かべほとんど息もしておらず、股関節のあたりまで掛け布団が掛かっていて布団の下から銃口がのぞいていた。 「部屋は血の海になっていた」という報道もあったが実際はそこまで血は流れておらず、田宮の体の左側に血が散っているという感じだったと言う。 付き人は慌てて119番通報を、そしてにあった田宮企画の事務所に電話をした。 寝室の隣室の書籍からも見つかり警察は自殺と断定。 田宮の死亡が確認されたのは13時50分頃で、マスコミには14時過ぎに田宮猟銃自殺の一報が入った。 奇遇にもこの日は14時から()で田宮が出演した映画『』(1973年公開、)が放送されていたため、この映画の放送中に田宮自殺のニュース速報が流れることとなった。 また、で14時から放送していた『』(制作、一部にもネット )では、鴨沂高校の同級生である・の口から直接田宮の猟銃自殺が速報として伝えられたが、福郎はその場で悔しさのあまり原稿を叩きつけて号泣した。 その夜に仮通夜をすませ、翌29日の午前中に遺体の検視、その夜に通夜、そして30日に密葬を行い、年明けの(昭和54年)に告別式を行った。 散弾銃の引き金を足の指で引いたとされているが、その当時、付き人いわく田宮の手元には銃はなかったはずだと言う。 田宮は「銃は妻に取り上げられてどこにあるか分からない」と言ったことをもらしていて、自宅に置いてあった銃のケースに中身が入っている形跡もなかったと言う。 葬儀数日後に形見分けがあり、付き人が田宮邸に手伝いに行った時、クローゼットの中から散弾が入った箱が見つかった。 葬儀後しばらくして田宮夫人から付き人宛ての遺書だという物が手渡された。 ごく普通の便箋に書いてあり、日付も田宮のサインもなく本人の筆跡かどうかも分からないが、《僕のセーターで気に入ったものがあったら、持っていって使ってください》と書かれていたという。 残された遺書は妻・息子達・二児の家庭教師・2人の弁護士・田宮企画顧問・・宛の8通あったとされている。 そのうち妻へ宛てた遺書には、感謝の言葉と共に、生きることの苦しみと死への恐怖が綴られ、「病で倒れたと思って(中略)諦めて欲しい」と書かれていた。 次男のへは当時から俳優を志していた彼に「俳優になるなら人間を知ってから」との言葉を生前に遺していた。 この田宮の自殺は、大きな衝撃をもって報道された。 田宮も映画化された際に出演した(山崎豊子原作)において万俵鉄平が猟銃自殺をする場面があり、山崎は田宮の死を電話で知るとすぐに「猟銃でしょう」と悟ったという。 では田宮が望んだ万俵鉄平役がかなわず、試写会の後で「僕ならもっとうまく猟銃自殺をやれるのに」と話していた。 また、生前から自宅の居間で妻を前に「こうすれば死ねるんだ」と猟銃を抱き抱え足の指を引き金に掛けるまねをしていたことがあった。 この報道渦中での放映となったドラマ『白い巨塔』残り2話は皮肉にもさらなる注目を集めることとなり、視聴率は上昇して最終話は31. 結果多くの人々の記憶に残り、視聴率的にも大成功を収めることとなった。 の報道の中、弔問には同じ大映専属の俳優だったと、勝新太郎・夫妻、、、、らに加え、ドラマ『白い巨塔』で共演した山本學・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・高橋長英・・・・・・・・・・・・・・・・・・・らが駆けつけた。 葬儀委員長はが務め、明蝶と勝の2人が弔辞を読み上げた。 また、ドラマ『白い巨塔』で花森ケイ子を演じて田宮と共演した太地喜和子は田宮の遺影に向かって「あんた、ばかねえ」と言い自殺を嘆き、勝はマスコミに対し「さぞ背伸びして、どれほど苦しんだか」と田宮の胸の内を代弁した。 は「清光院法誉顕映究吾居士」。 墓地の所在は柴田家代々の墓地。 生まれ故郷である京都のにある。 田宮は自殺の10カ月前にに加入したが、加入から1年以内の死亡は保険金支払いの対象外であったため、本来なら支払われないはずの保険金が躁鬱病による自殺と判断され、特例で3億円が遺族に支払われた。 この一件は物議を醸すことになり、でも議題に取り上げられるほどの騒ぎとなった。 自殺場所となった田宮の自宅は後に解体され、跡地は妻がオーナー経営する外国人向けになった。 逸話 [ ] この節に。 事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または。 ( 2018年9月)• 田宮謙次郎は監督就任直後に行った田宮との対談で、自分の名前にちなんだ芸名を付けることには歓迎であったが、名前を(田宮 次郎ではなく田宮 二郎)にしたことについては当初不満に思っていたという。 しかし、改名後に田宮がブレイクしたため「結果的に験担ぎになったわけだし、今は(名前を漢数字にして)良かったと思っている。 」と述べている。 『悪名』の配役決定後、田中監督は田宮と連絡がつかなかった。 実は、田宮は端役ばかりの役どころに悩み、映画界を引退し実業の道に進むつもりでいた。 クランク・イン1週間前になってようやくへやって来た田宮は、出演を断るつもりでその旨を伝えたという。 しかし、スタッフの説得で田宮は思い直し、映画の完成に至った。 テレビドラマ『白い巨塔』の放送が回を重ねるにつれ、財前五郎よりも人情味のあるの方が視聴者に支持されるようになったため、この事を不満に思った田宮は原作者の山崎豊子に「僕の役(財前五郎)がみんなから好かれるようにならないものですか……」と直談判していた。 田宮のこの要望に山崎は「困るわよね」と苦笑していたという。 長年共演のある中村玉緒によると、『悪名』シリーズで共演した勝新太郎は田宮の演技について一切言及してこなかったが、遺作となった1978年版『白い巨塔』の最終回で財前五郎が病死するシーンを見て「あの田宮は恐ろしい。 玉緒、あの演技はすごいよ」と言い、田宮の演技を初めて褒めたという。 玉緒もこのドラマで田宮と共演しているが、法廷シーン収録時の田宮ついて「いま考えると、割りにすっと座ってらした様な気もするし。 それは役に入ってらしたのか、もっと悩みがあったのか。 その辺は私、わかりませんね。 圧巻でしたから」とインタビューで述べている。 俳優としてはクールでアクの強い役を演じることが多かったが、『クイズタイムショック』をはじめとするテレビ番組の司会では、明るく軽妙で親しみやすいトーク、なおかつ折り目正しく理知的な司会ぶりが多くの視聴者から支持された。 特に『タイムショック』では、番組冒頭とクイズ出題の際の決め台詞「ターイムショック!! 」とカメラを指さすポーズが広く知られ、収録では極度の緊張状態にある一般出場者にリラックスしてクイズに臨んでもらえるよう、司会者として常に細やかな気配りと思いやりを忘れなかったという。 TBS系『』(1977年2月26日・第361回放送分)で、学校を舞台としたコントにおいて頭がいい生徒役としてゲスト出演をした際、に『クイズタイムショック』風で「英語で25は? 」「フランス語で25は? 」「ロシア語で25は? 」「中国語で25は? 」「スペイン語で25は? 」と『タイムショック』ばりに連続して出題された問題に次々と正解した後、「ターイムショック!! 来日したに会っている。 日本酒「大関」のCMに永く出演していたが、田宮本人は酒がほとんど飲めなかったため、収録では水を飲んでの演技だった。 趣味は、。 愛用の銃が自殺に使用された。 空手初段、また英語が堪能。 主な出演作品 [ ] 映画 [ ] 大映専属時代 [ ]• (1957年) - 群衆(エキストラ)• (1957年) - 新聞社のカメラマン 役• (1957年) - 学生 役• (1957年) - 秀二の旧友 役(エキストラ)• (1957年) - 乗客役など(エキストラ)• (1957年) - 浜尾 役• (1957年) - 竹中 役• (1957年) - 林 役• (1958年) - 金山信次 役• (1958年) - 二十七号 役• (1958年) - 木下 役• (1958年) - 三井明 役• (1958年) - 安岡 役• (1958年) - 学生 役(エキストラ)• (1958年) - 佐東正雄 役• (1958年) - 三郎 役• (1958年) - 中村二郎 役• (1958年) - 進藤修 役• (1959年) - プロローグの社員 役• (1959年) - 和田良夫 役• (1959年) - 叶冬彦 役• (1959年) - 山口真吾 役• (1959年) - 小坂 役• (1959年) - 曽根 役• (1959年) - 高庭孝一 役• (1959年) - 毛利信一 役• (1960年) - 浜本 役• (1960年) - 春本 役• (1960年) - 辻元和弘 役• (1960年) - 筧新平 役• (1960年) - 熊谷正雄 役• (1960年) - 花輪次郎 役• (1960年) - 平戸充 役• (1961年) - 中井 役• (1961年) - 牧周太郎 役• (1961年) - 松島謙介 役• (1961年) - 野上俊夫 役• (1961年) - 八代銀四郎 役• (1961年) - 関根進 役• (1961年 - 1968年) - モートルの貞 役(悪名・続悪名のみ)、清次 役• 悪名(1961年)• (1961年)• (1962年)• (1962年)• (1963年)• (1963年)• (1963年)• (1963年)• (1964年)• (1965年)• (1965年)• (1966年)• (1967年)• (1968年)• (1961年) - 石井多七郎 役• (1962年) - 長田吉夫 役• (1962年) - 素村毅一 役• (1962年) - 橋本順二 役• (1962年) - 浅井 役• (1962年) - 栗原信一郎 役• (1962年 - 1965年)• (1962年) - 朝比奈豊 役• (1963年) - 泉田敬 役• (1964年) - 津田拓也 役• (1964年) - 南郷次郎 役• (1964年) - 片柳七郎 役• (1964年) - 根来恭平 役• (1964年) - 桔梗敬一 役• (1962年) - 藤悟 役• (1962年) - 加宮恭介 役• (1962年) - 堤栄二 役• (1962年) - 扇谷秀次郎 役• (1963年) - 日沼隆司 役• (1963年) - 梅村芳三郎 役• (1963年) - 伊夫伎亮吉 役• (1963年)- 中部京介 役• (1963年) - 木谷明 役• (1963年) - 尾関圭介 役• (1963年) - 田村信一 役• (1964年) - 石塚健一郎 役• (1964年 - 1967年) - 鴨井大介役、全9作品。 (1964年)• (1964年)• (1965年)• (1965年)• (1965年)• (1966年)• (1966年)• (1967年)• (1967年)• (1964年) - 久須見 役• (1964年) - 特別出演• (1965年) - 木島健一 役• (1965年) - 榊原安太郎 役• (1965年) - 川上吾郎 役• (1965年) - 須川康夫 役• (1965年) - 獅子内三郎 役• (1965年) - 瀬川繁夫 役• (1966年) - 青田新次 役• (1966年) - 佐川次郎 役• (1966年) - 宮城譲二 役• 貴様と俺(1966年) - 佃大四郎 役• (1966年) - 仲田浩 役• (1966年) - 速水秀治 役• (1967年) - 乾敬介 役• (1967年) - 綾吉 役• (1967年) - 氏家隆二 役• (1967年) - 阿久根五郎 役• (1967年) - 河西義男/ヘンリー野坂 役• (1967年) - 島村吾郎 役• (1967年) - 生沢敬 役• (1968年) - 得田仁平 役• (1968年) - 多門晃 役• (1968年) - 浅井義雄 役 独立以後 [ ]• (1969年、) - 役• (1970年、東宝) - 九条輝彦 役• (1971年、東宝) - 門馬直彦 役• (1972年、松竹) - 志田司郎 役• 剣と花(1972年、松竹) - 宮尾 役• (1972年、松竹) - 吉良常 役• (1973年、松竹) - 栗田の銀五 役• (1973年、松竹) - 役• (1973年、松竹) - 役• (1974年、松竹) - 小村諒平 役• (1974年、松竹) - 広川六郎 役• (1975年、松竹) - ナレーター• (1976年、松竹) - 小村諒太郎 役• 疑惑(1960年)• (1960年、)• (フジテレビ)• 第20回「愛の渇き」(1960年)• 第24回「」(1961年)• (1961年、フジテレビ)• (1960年 - 1961年、)• 第20回「槍一筋」(1961年)• (1962年、フジテレビ)• (1968年 - 1980年、アメリカ)• Odd Man In(第4シーズン第14話、1971年) - シバタゴロウ 役• (1972年、) - 三友竜一役• (1973年、TBS) - 直江庸介 役• (1974年、TBS) - 杉山重夫 役• 金曜ドラマ (1974年、TBS)• (1975年、TBS) - 中根竜三 役• (1976年、TBS) - 面川清次 役• (1976年 - 1977年、TBS) - 三村京介 役• 金曜ドラマ (1977年、TBS) - 郷原武彦 役• (1977年 - 1978年、TBS) - 仁科純一 役• (1978年 - 1979年、フジテレビ) - 役 教養・バラエティ番組 [ ]• (、1969年1月9日 - 1978年9月28日) - 司会• (NET、1969年) - 司会• (、1969年) - 司会(桂三枝〈現・〉がアシスタント)• 田宮二郎ショー(、1969年) - 司会• (、1969年 - 1970年) - 司会• (フジテレビ、1969年9月15日) - 司会• (フジテレビ、1970年) - 司会• (NET、1975年 - 1977年) - 司会• (民放版、1976年12月31日 - 1977年1月1日) - と共に司会• (、1977年4月1日) - 総合司会• (フジテレビ) 舞台・ミュージカル [ ]• (1962年3月3日 - 3月25日、) - 雨宮潤一 役• 花筵(1970年、)• (1970年、) - アシュレー・ウィルクス 役 CM [ ]• (1968年 - 1977年) - と共演。 「酒は大関 心意気」のキャッチコピーを利用したCMは田宮出演が最初。 6本のCMに出演。 うち1本は2009年、により同カットで、放映された。 (1977年 - 1978年、5代目後期型 - 6代目前期型発売当初)• ラジオ [ ]• (1959 - 1963年、途中から出演。 (1968年10月 - 1969年? (1965年 - 1966年、文化放送/) - 役 音楽作品 [ ] シングル [ ]• 升本喜年 『田宮二郎、壮絶! いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』(、2007年(平成19年)11月)• 回想伝記、著者は仕事仲間で、で映画・テレビプロデューサーを務め、1972年〈昭和47年〉の映画『』、1976年〈昭和51年〉のテレビドラマ『白い秘密』ほか、田宮出演作品の企画・製作を通じて親交があった。 石田伸也 『田宮二郎の真相』(青志社、2018年(平成30年)11月)、夫人への取材を行った評伝。 脚注 [ ] []• この模様が当時『NHK週間ニュース』(土、22:25 - 22:45)で放映されに保存されている。 また、『』2012年6月6日放送分にてその映像が流された。 「文太の殺陣に観客が『おお!』」『高倉健と任侠映画』(原著2015年2月15日)、初版第一刷、306頁。 「エロからテロへ」『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(原著2013年11月15日)、初版第一刷、274頁。 徳間書店 2016年1月27日. 2018年9月12日閲覧。 東京版(1978年6月4日朝刊)• 『田宮二郎、壮絶! いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』、2007年、392頁。 田宮は白布の下で泣いていたと伝える人もいる。 「」『』2016年2月25日号、 2018年9月12日閲覧。 関東地区(TBS)では放送なし。 『人間臨終図巻 上巻』徳間書店、1986年、p. 150• 2015年4月8日閲覧。 1979年6月21日に衆議院の大蔵委員会金融及び証券に関する小委員会にて取り上げられた。 議事録の4ページ目3段目より田宮が取り上げられている。 「田宮二郎の生命保険"三億円"支払いの怪」『週刊現代』1979年6月7日号、講談社。 『日本映画監督列伝 田中徳三』()より。 テレビ朝日 2007年9月15日. 2018年9月12日閲覧。 『スタアの40年 平凡 週刊平凡 秘蔵写真集』、1988年、 [ ]。 田宮の突然の自殺により、CMはそのまま終了となった。 2012年3月2日時点のよりアーカイブ。 2018年9月12日閲覧。 - 参照 関連人物・項目 [ ]• - 選手。 田宮の芸名の由来となった人物で、には『』の企画で対談も行っている。 - 学習院大学の同期であり、ドラマ『白い巨塔』で共演。 俳優でありテレビ司会者としても活躍するなど田宮との共通点も多い。 - 大映時代の同僚で同級生。 田宮とは互いに下積み時代から数多くの映画で共演しており、共に人気俳優になった後はW主演(『やくざの勲章』『轢き逃げ族』など)も果たしている。 - 鴨沂高校の同級生。 司会を務めていた『スタジオ2時』のオンエアー中に田宮自殺の速報が入り、人目をはばからず号泣した。 - 作者のは田宮をイメージして原作を書いたという。 - 学習院大学の先輩。 美輪明宏を紹介される。 外部リンク [ ]• - (英語)•

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