けうらなること世になく。 【シャニマス】招待凛世を20分で完凸させる方法

森鴎外 舞姫

けうらなること世になく

運動をした方が良いうことはなんとなくわかっていると思いますが、なぜ運動をしなくてはいけないのでしょうか。 それには大きく2つの理由があります。 生活習慣病の予防 食べ物から摂取したエネルギーと運動により消費したエネルギーがバランスよく保たれていることが健康の為に良い状態です。 しかし食べる量は変わらず、運動を行わないと摂取エネルギーが消費エネルギーを上回り、使われなかったエネルギーは脂肪としてからだに蓄えていきます。 この状態が幾度となく繰り返されると、脂肪が必要以上に蓄積し、肥満となります。 そして肥満が原因となって糖尿病、高血圧、脂質異常症といった生活習慣病になるリスクが高くなります。 筋力やからだ機能の維持 体調を崩し1週間ほど寝込んでいた後は、疲れやすかったり、普段のように動けないなど、体力や筋力、持久力などが衰えていると感じたことがあるかと思います。 人間は持っている機能を使わないと驚くようなスピードでその機能は低下していきます。 たとえば「歩く」という動作。 簡単に行っているようですが、歩くときには大腿四頭筋(大腿直筋・広筋)、大腿二頭筋、前頸骨筋、下腿三頭筋(腓腹筋・ヒラメ筋など)といった多くの脚の筋肉を使って、1歩、また1歩と歩きます。 さらにお尻や腰、背中、腕の筋肉も使用しています。 つまり全身の筋肉を使ってはじめて「歩く」ことができるのです。 また重心を移動させて前に進むためにはバランス能力、さらには長い時間動くことができる心肺機能も必要となります。 もし「歩く」動作をしなくなったら、多くの筋肉が減少し、さらにバランス能力、心肺機能が低下します。 こうなってしまうと歩くスピードが落ち、信号を渡りきれない、または荷物を持つとバランスが保てずふらついてしまう、小さな段差でつまずき転んでしまうなど日常生活に多大な影響を及ぼす恐れがでてきます。 このようなことに事態にならないために毎日歩くことが必要なのです。 歩くことで必要な筋肉、機能が維持されます。 また筋肉量は成長期に増え、その後加齢とともに減少していきます。 しかし筋肉は骨とは違って、いくつになってもトレーニングを行えばその分増やすことができる組織です。 このように運動をすると精神面にも様々な良い影響を及ぼします。 ・認知症の低減 ・不定愁訴の低減 ・気分転換やストレス解消 みなさんは普段どのくらい運動をしているでしょうか?人によって運動量は大きく違います。 これから運動を始める、という方は以下を参考に運動量を調節してみてください。 そこで日常生活の中で「今より10分多くからだを動かしましょう」という指針が厚生労働省より出されました。 10分多く動くということは歩数にすると約1000歩多く歩くということになります。 たとえばエレベータではなく階段をつかう、少しの距離は自転車ではなく歩くなどすると、より歩数が多くなります。 歩行以外にも電車では立つ、買い物はカートではなくかごを持つようにするなど少し行動を見直すことで10分多く動くことにつながります。 無理をしないで自分にできることを考えてみると良いかもしれません。 ウオーキング、ランニング、サッカー、野球、テニスなど、どのような運動でも構いません。 楽しく継続して行うことができる運動をみつけ、習慣化されることをおすすめします。 参考:厚生労働省「健康づくりのためのからだ活動基準2013」及び「健康づくりのためのからだ活動指針 アクティブガイド について」.

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本居宣長『玉勝間』をやさしい日本語にしてみる

けうらなること世になく

竹取物語の用言を教えて下さい。 すみません。 今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。 野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。 名をば、さかきの造となむ言ひける。 その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。 あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。 それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。 翁言ふやう、「我、朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて、知りぬ。 子となり給ふべき人なめり」とて、手にうち入れて家へ持ちて来ぬ。 妻の嫗に預けて養はす。 うつくしきことかぎりなし。 いと幼ければ籠に入れて養ふ。 竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけてのちに竹取るに、節を隔ててよごとに金ある竹を見つくること重なりぬ。 かくて翁やうやう豊かになりゆく。 この児、養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。 三月ばかりになるほどに、よきほどなる人になりぬれば、髪上げなどさうして、髪上げさせ、裳着す。 帳のうちよりも出ださず、いつき養ふ。 この児のかたちけうらなること世になく、屋のうちは暗き所なく光満ちたり。 翁、心地あしく苦しき時も、この子を見れば、苦しきこともやみぬ。 腹立たしきことも慰みけり。 翁、竹を取ること久しくなりぬ。 いきほひ猛の者になりけり。 この子いと大きになりぬれば、名を三室戸斎部の秋田を呼びてつけさす。 秋田、なよ竹のかぐや姫とつけつ。 このほど三日、うちあげ遊ぶ。 よろづの遊びをぞしける。 男はうけきらはず呼び集へて、いとかしこく遊ぶ。 世界のをのこ、貴なるも卑しきも、いかでこのかぐや姫を得てしがな、見てしがなと、音に聞きめでて惑ふ。 上の文の用言を教えて下さい。 すみませんが、至急お願いします。 お願いします。 いふ=動詞・四段活用・連体形 あり=動詞・ラ変活用・連用形 まじり=動詞・四段活用・連用形 取り=動詞・四段活用・連用形 使ひ=動詞・四段活用・連用形 言ひ=動詞・四段活用・連用形 光る=動詞・四段活用・連体形 あり=動詞・ラ変活用・連用形 あやしがり=動詞・四段活用・連用形 寄り=動詞・四段活用・連用形 見る=動詞・上一段活用・連体形 光り=動詞・四段活用・連用形 見れ=動詞・上一段活用・已然形 うつくしう=形容詞・シク活用・連用形・ウ音便 ゐ=動詞・上一段活用・連用形 言ふ=動詞・四段活用・連体形 見る=動詞・上一段活用・連体形 おはする=動詞・サ変活用・連体形 知り=動詞・四段活用・連用形 なり=動詞・四段活用・連用形 給ふ=動詞・四段活用・終止形 うち入れ=動詞・下二段活用・連用形 持ち=動詞・四段活用・連用形 来=動詞・カ変活用・連用形 預け=動詞・下二段活用・連用形 養は=動詞・四段活用・未然形 うつくしき=形容詞・シク活用・連体形 かぎりなし=形容詞・ク活用・終止形 幼けれ=形容詞・ク活用・已然形 入れ=動詞・下二段活用・連用形 養ふ=動詞・四段活用・終止形 取る=動詞・四段活用・連体形 見つけ=動詞・下二段活用・連用形 取る=動詞・四段活用・連体形 隔て=動詞・下二段活用・連用形 ある=動詞・ラ変活用・連体形 見つくる=動詞・下二段活用・連体形 重なり=動詞・四段活用・連用形 豊かに=形容動詞・ナリ活用・連用形 なりゆく=動詞・四段活用・終止形 養ふ=動詞・四段活用・連体形 大きに=形容動詞・ナリ活用・連用形 なりまさる=動詞・四段活用・終止形 なる=動詞・四段活用・連体形 よき=形容詞・ク活用・連体形 なり=動詞・四段活用・連用形 さうし=動詞・サ変活用・連用形 す=動詞・サ変活用・終止形 出ださ=動詞・四段活用・未然形 養ふ=動詞・四段活用・終止形 けうらなる=形容動詞・ナリ活用・連体形 なく=形容詞・ク活用・連用形 暗き=形容詞・ク活用・連体形 なく=形容詞・ク活用・連用形 満ち=動詞・四段活用・連用形 あしく=形容詞・シク活用・連用形 苦しき=形容詞・シク活用・連体形 見れ=動詞・上二段活用・已然形 苦しき=形容詞・シク活用・連体形 やみ=動詞・四段活用・連用形 腹立たしき=形容詞・シク活用・連体形 慰み=動詞・四段活用・連用形 取る=動詞・四段活用・連体形 久しく=形容詞・シク活用・連用形 なり=動詞・四段活用・連用形 なり=動詞・四段活用・連用形 大きに=形容動詞・ナリ活用・連用形 なり=動詞・四段活用・連用形 呼び=動詞・四段活用・連用形 つけ=動詞・下二段活用・未然形 つけ=動詞・下二段活用・未然形 うちあげ=動詞・下二段活用・連用形 遊ぶ=動詞・四段活用・終止形 し=動詞・サ変活用・連用形 うけきらは=動詞・四段活用・未然形 呼び=動詞・四段活用・連用形 集へ=動詞・下二段活用・連用形 かしこく=形容詞・ク活用・連用形 遊ぶ=動詞・四段活用・終止形 貴なる=形容動詞・ナリ活用・連体形 卑しき=形容詞・シク活用・連体形 得=動詞・下二段活用・連用形 見=動詞・上一段活用・連用形 聞き=動詞・四段活用・連用形 めで=動詞・下二段活用・連用形 惑ふ=動詞・四段活用・終止形.

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摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。

けうらなること世になく

いわゆる「武藤本」が底本の原文を辿ります。 1.竹林の中で根元の光る一本の竹を見つけた。 …「その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。 」 その竹は伐り株ではなく、「一筋」の生きた若竹=「なよ竹」の根元のあたりでしょう。 2.不思議に思い、近づいて見ると、その一節分(だけ)が光っているのだ。 …「あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。 」 近づいて見ると、その根元でも「筒」=節と節の間の部分だけ光っていた。 3.更に目を凝らすと、そこに三寸ほどの身長のお人が、とても可愛らしい姿で(光を放って、立って)いらっしゃるではないか…「それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。 」 見ただけで身丈三寸程の人と即座にいえるのは、立ち姿だったからと見るのが自然でしょう。 「いとうつくしうてゐたり」とは、 1 とても可愛らしかった、 2 「ゐる」は本動詞では「立つ」に対しての「居る」「座る」なのだが、この場合は補助動詞なので存在動詞性を帯びて行為・状態の存続していることを表わし「いる」であり、だからこそ「竹の中におはするにて」として、「いる」の敬語表現が続いているのです。 このことは、かぐや姫が竹から生まれたといった表現が一切使われていないことの確認にもなります。 また「かぐや」は「馨 かぐは し」だけでなく「赫奕 かくやく 」たる光り輝く存在であればこそ、その一節分の筒においでになっていらっしゃるのが見えたのです。 言い換えれば 1 「生まれた」といった表現はどこにもない、 2 筒が光っているので切り取ったら姫がいたわけではなく、光のもとは姫自身であり、「なよ竹」においてそのお姿が直接見えたとしか触れていません。 「今昔物語」でも「篁の中に一の光あり。 その竹の節の中に、三寸ばかりなる人あり」「片手にはその小さき人を取り、いま片へに竹を担いて家に帰り…」とあり、切ったり、生まれたりした記述はなく、ただ光をたよりに見つけ、片手に取って連れ帰っただけです。 一方「海道記」では、採竹翁 たけとりのおきな の女 むすめ となった赫奕姫 かくやひめ との出会いは「翁の宅の竹林に、鶯の卵、女の形にかへりて巣の中にあり」と記されています。 この竹林に巣をかけた鶯の「かいこ」説については、この他にも「歌道寄合肝要集」「聖徳太子伝拾遺抄」「三国伝記」など枚挙に遑もありません。 なお「斑竹姑嬢」では泣き声のする「楠竹」を家に持ち帰り、そっと割ってみるとその「竹筒裏竟有一個漂亮的女姟(竹筒の中になんと一人の美しい女の児がはいっていたのです)。 」とあり、こちらの方なら、泣き声やら、竹割りなりに言及されていることになりますのでご参考まで。 竹と樹木は全然別物です。 竹が割れ易いということを御存じない方はお話しになりません。 数は少ないですが、幼竹、成竹青竹、黄色くなった老竹のいずれにも見ることができます。。 根元のいぼいぼのところは割れません。 「もと」は根元の土に接している部分とは限りません。 「下の方」と解釈してもおかしくはありません。 女陰のごとき割れ目より光が洩れている光景が一番美しいですね。 生まれ出るということ、夜露や雨風から守られているということ、・・・想像できない人には無理に押し付けません。 文学作品はそれぞれの鑑賞者の見方によって解釈が変わって当然です。 ただ、怪しげな科学的らしき情報で他人の見方を否定するのはもってのほかだと思います。 離れていた翁に見えたのは根元の光る竹でした。 そこで翁は近寄り、筒の中が光っているの見たのですから、この竹は根元も光っていれば筒の中も光っています。 その竹の中に本光る竹なむ一筋ありける 怪しがりて寄りてみれば筒の中光りたり 竹の切り株を上から覗いて姫を見つけたと読むのが自然だと思います。 樹洞は考えられません。 竹の柔細胞組織と維管束鞘はいずれも被膜状の繊維で、ケイ素の多い外皮とこれらの繊維しかありません。 傷を受けた場合、他の樹木のように表皮が再生しながら再生のない内側のみ細菌に冒されるという樹洞のかたちをとることはないでしょう。 現代語訳といえるものには大差はないはずで、質問者さんのおっしゃるのは、翻案とよばれる作品群でしょう。 短く、わかりやすく、子供を惹きつけるリズムにしたりと、昔話の翻案作品はいろいろあります。 内容も勝手に加筆修正が加わりますから、忠実を基本とする現代語訳とは異なるものです。 世の東西をとわず、中世よりも古い文学のもつ駄洒落や掛け言葉などの、言葉遊びの部分を伝えるのは難しく、それを補うために現代語訳とよびうるものには必ずと言ってよいほど、註釈・注解が添えてあるはずです。 そういう意味では星新一の現代語訳もやや翻案に近いと言えますが、それが一風変わっているのは大人向けの洒落がきいているということでしょうね。 原文も添えてありますしコラムも読みでがありますから大人の鑑賞に耐えます。 竹取物語をめぐる論考やエッセイや翻案はいろいろあると思います。 市川昆はSF映画にしましたね。 翻案解釈なら自由で、それらに価値があるかどうかは、その著者や制作者が自己充足にとどまらず視界を拡げて伝えたいものを伝えているかに掛かっていると思います。 そういうものと、研究とのあいだには溝も壁もあるわけです。 この時代の文学は写本ですから、異本の比較か、表記の判別か、表現の背景と解釈か、あとは民俗学の資料と照合するなどの研究となります。 わたしたちは写本に書いていないことを考えるというよりも、写本に書いてあることそのままを細かく突きつめて文に昇華した些細な気配までも捉えて当時書いた人の気持ちがわかるようにということなんですよね。 お答えになっているといいんですが。 竹や孟宗竹が根もとが裂けると、それは何かの原因で腐ったのです。 竹は元気がよくて、活き活きしているのが普通です。 根もとが裂けた竹は死しかありません。 そういう竹も見たことがあるのかもしれませんが、私は意識と記憶にありません。 藪蚊はとてもかゆいから、どうか蚊よけのスプレーを手足と顔にかけて、短時間で通過してください。 子どもの頃は何だってはねつけてきましたが、75過ぎるとはねつける元気が発せられなくなり、ちょいとした人の言辞もとても辛いですね。 反対に優しいことばには直ぐに飛びつきます。 高齢者がわかっていてもどうしてもいろんな優しい詐欺の被害を受ける気持ちがとてもわかります。 追善供養って、善を偲んでくれるのでしょう。 向こうに逝った人をよく思ってあげる、云ってあげるということはとても大事ですね。 私は仏教徒ではありませんが。 人の事を悪く言うことはいけないことです。 ANo. 8: なるほど、天界の存在は物質を通過できる。 そういうことですと確かに矛盾なく読んでいけますね。 かぐや姫は何しに地上に来たか。 そうですか。 一種の贖罪ということですか。 マハーバーラタ物語でも、ガンカ(ガンジスの精)は八人の男の子を生みますね。 これは天界である聖仙を侮辱した贖罪で地上に下りなければならなかったので、ガンガに頼んで産んでもらうのですね。 しかし直ぐに天界に戻すという約束ですね。 そして夫のシャンターヌはガンガと結婚するにあたり、ガンガのすることはどんなこともクレームを云わないという約束をしているのですね。 しかし、最後の八人目のBhishm(ビシューマ)をガンガがガンジスに入れるとき、耐え切れなくなったシャンターヌはBhishm(ビシューマ)の命乞いをするのですね。 ガンガは約束を破ったということで、自らその出てきたガンジスに自分を入れ、Bhishm(ビシューマ)を置いていくのですね。 八人の子は、宇宙創造の原理forceの擬人化といわれています。 Bhishm(ビシューマ)はego意識だそうです。 シャンターヌがegoから命乞いしているのですね。 いろいろ尽きない話はありますが。 シャンターヌが森でガンガとは、ブラフマの意識の観念で、森とはつまりはブラフマの意識の中ということだそうです。 ブラフマとは創造神です。 ブラフマンの創造意識という一側面ですね。 ANo. 2:参考までに、・・・ ある民俗学の先生 15以上お若いが尊敬しています。 の本の内容の一部から、手繰っていって読んだ本からの知識。 (かぐや姫が天界の方だとすると、) 天界の存在体は物質的肉体で自己存在していない。 そういう存在では肉体を維持するための食物を摂らないし、だから新陳代謝も肉体的ではない。 だから空気の呼吸はしていない。 (だとすると、竹の中にどれだけの空気があるのか判りませんが、竹が外界と空気の流通がなくても問題はないと思う。 ) 2. かぐや姫が地上(この(世)界)の方ではないとすると、 この地上(この(世)界)の空気を吸い、或いは水などを口にしたとき、地上(この(世)界)に入ってきた。 私の読んだ民俗学の話では、我々も何かの異界にいって、戻れなくなるのは、そこの空気を吸ったり、水を口にしたときだと、いうのです。 天界の人も、そうですが私たちの精進(ヒンドゥの教え数十年やっています)でも、完全に肉体を超越すると、無呼吸になります(私は未だ稀ですが無呼吸になっていることに気付くことがあります。 かぐや姫が竹の中で外界を遮断していれば、無呼吸だと存じます。 私の周りにはいろんな種類の竹があります。 竹を切った残りの根っこはどうしてもいろんなものが溜まります。 水などがたまり根っこが変質し、正常さを失います。 関西では被差別の方らしいですが、私たち関東育ちには古い氏族、日本の古族という憧憬があります。 私の近所にも竹細工のお仕事の家があります。 義兄の分骨をし谷中のお寺の道にもそういうお宅があります。 私たちの同志や我が家におられた職人さんも自らは言いませんでしたが、そういう方で懐かしい方々でした。 いろいろな情報有り難うございます。 妄想竹は駄洒落でした。 この話はファンタジーの世界なので,常識的なことからずれていても構わないのだと思います。 そも そも,切らなければでてこれないような存在なら,竹筒の中にも入れないと思うのです。 かぐや姫は月の都という天上界から地上界へ降りてきた天女であり,重力に逆らって,空を飛ぶことも,自ら光り輝くこともできる存在として,この物語では設定されています。 月の都の帝がかぐや姫の罪を償わせるために,竹取の翁のもとへ意図的に送り出したのです。 姫の発光は,翁にその存在を気付いて貰うために必要だったわけですが,竹筒を突き抜けるほどの光で自ら光るなら,切らなくても見えるはずではと思うのです。 そして,切らなくても翁の手のひらの上に移動することも可能ですね。 翁が姫を神の化身とみなしていることは,敬語をつかっていることからも分かります。 さんかの話から,翁の身分も関係しているようですね。 「なよたけのかぐや姫」を理詰めで解釈します。 もと(根元と推定)光る竹一筋ありけり。 あやしがりて 寄りて見るに、筒の中光りたり。 それを見れば、 三寸ばかりなる人、いとうつくしうて居たり。 かぐや姫をどうやって取り出したか書かれていません。 しかし、もと光る竹一筋というからには、立っている竹の ことで、切株は一筋とはいいません。 根元の筒の中が光るのでどうしてか見ようとすれば 切るしかありません。 そのあとの文章にも 翁、竹を取るに、この子を見つけて後に、節をへだてて よ(夜)ごとに、黄金ある竹を見つくること重なりぬ。 その後もかぐや姫のように光る竹を見つけて切り、黄金 を得て金持ちになったとあります。 竹を取る即ち切ることです。 現存する竹取物語絵画の中で、最も古いと見られる 宮内庁書陵部蔵「竹取翁物語絵巻」の中の絵には 翁が、かぐや姫を手の平に載せている背景には鉈の ような刃物と倒れた二、三本の竹が書かれており、 竹を切ったという設定です。 以上の点から竹を切ったということになります。 「なよたけのかぐや姫」がこの系統の中で一番古いもの という前提の上ですが。 Q 「かぐや姫のおひたち」の読み方がこれで正しいか教えてください。 歴史的仮名遣いではなく、音読するときの現代仮名遣いでおねがします。 特に自信がないところは【 】でくくりました。 長いですが、よろしくお願いします。 今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。 (いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。 ) 野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。 (のやまにまじりてたけをとりつつ、よろづのことにつかいけり。 ) 名をば、さかきの造となむいひける。 (なおば、さかきのみやつことなんいいける。 ) その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。 (そのたけのなかに、もとひかるたけなん【ひとすじ】ありける。 ) あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。 (あやしがりてよりてみるに、つつのなかひかりたり。 ) それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。 (それをみれば、【さんすん】ばかりなるひと、【いとうつくしくていたり】。 ) 翁言ふやう、「わが朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて、知りぬ。 (【おきないうよう】、「わがあさごとゆうごとにみるたけのなかにおはするにて、しりぬ。 ) 子になりたまふべき人なめり。 」とて、手にうち入れて、家へ持ちて来ぬ。 (こになりたまふべきひとなめり。 」とて、てにうちいれて、いえへもちて【きぬ】。 ) 妻の嫗に預けて養はす。 うつくしきこと限りなし。 いとをさなければ、籠に入れて養ふ。 (つまのおうなにあずけてやしなわす。 うつくしきことかぎりなし。 いとおさなければ、こにいれてやしなう。 ) 竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけてのちに竹取るに、 (たけとりのおきな、たけをとるに、このこをみつけてのちにたけとるに、) 節を隔ててよごとに黄金ある竹を見つくること重なりぬ。 (【ふし】をへだててよごとにこがねあるたけをみつくることかさなりぬ。 ) かくて、翁やうやう豊かになりゆく。 (かくて、おきなようようゆたかになりゆく。 ) この児、養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。 (このちご、やしなうほどに、すくすくおおきになりまさる。 ) 三月ばかりになるほどに、よきほどなる人になりぬれば、髪上げなどさうして、髪上げさせ、裳着す。 (みつきばかりになるほどに、よきほどなるひとになりぬれば、 かみあげなど【そうして】、あみあげさせ、もきす。 ) 帳の内よりも出ださず、いつき養ふ。 (【ちょうのうちよりいださず】、いつきやしなう。 ) この児のかたち、けうらなること世になく、屋の内は暗き所なく光満ちたり。 (このちごのかたち、けらうなることよになく、やのうちはくらきところなくひかりみちたり。 ) 翁心地あしく、苦しきときも、この子を見れば、苦しきこともやみぬ。 (おきなここちあしく、くるしきときも、このこをみれば、くるしきこともやみぬ。 ) 腹立たしきことも慰みけり。 (【はらだたしきこともなぐざみけり。 】) 翁、竹を取ること久しくなりぬ。 勢ひ猛の者になりにけり。 (おきな、たけをとることひさしくなりぬ。 【 になりにけり ?】) この子いと大きになりぬれば、名を、三室戸斎部の秋田を呼びてつけさす。 (このこいとおおきになりぬれば、なを、 みぬろいんべのあきたをよびてつけさす。 ) 秋田、なよ竹のかぐや姫とつけつ。 このほど三日うちあげ遊ぶ。 よろづの遊びをぞしける。 (あきた、なよたけのかぐやひめとつけつ。 このほどみっかうちあげてあそぶ。 よろづのあそびをぞしける。 ) 男はうけきらはず呼び集へて、いとかしこく遊ぶ。 (おとこはうけきらはずよびつどへて、いとかしこくあそぶ。 ) 世界のをのこ、貴なるもいやしきも、いかでこのかぐや姫を得てしがな、 (せかいのおのこ、きなるもいやしきも、いかでこのかくやひめをえてしがな、) 見てしがなと、音に聞き、めでて惑ふ。 (みてしがなと、おとにきき、めでてまどう。 ) 「かぐや姫のおひたち」の読み方がこれで正しいか教えてください。 歴史的仮名遣いではなく、音読するときの現代仮名遣いでおねがします。 特に自信がないところは【 】でくくりました。 長いですが、よろしくお願いします。 今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。 (いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。 ) 野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。 (のやまにまじりてたけをとりつつ、よろづのことにつかいけり。 ) 名をば、さかきの造となむいひける。 (なおば、さかきのみや... A ベストアンサー >音読するときの現代仮名遣いでおねがします。 音読の音(現代仮名遣い)、[選択肢]。 いまわ(は)むかし、たけとりのおきなというものありけり。 のやまにまじりてたけお(を)とりつつ、よろずのことにつかいけり。 なお(を)ばさぬきのみやつことなんいいける。 そのたけのなかに、もとひかるたけひとすじありけり。 あやしがりてよりてみるに、つつのなかひかりたり。 それお(を)みれば、さんずんばかりなるひといとうつくしゅうていたり。 おきなゆ(い)うよう、 「われあさごとゆうごとにみるたけのなかにおわするにてしりぬ。 こになりたもう(たまう)べきひとなんめり。 」 とて、てにうちいれていえ[や]にもちてきぬ。 つまのおうなにあずけてやしなわす。 うつくしきことかぎりなし。 いとおさなければ、こにいれてやしのう[やしなう]。 たけとりのおきなこのこをみつけてのちに、たけをとるに、ふしをへだててよごとにきんあるたけをみつけることかさなりぬ。 かくておきなようようゆたかになりゆく。 このちごやしのう[やしなう]ほどに、すくすくとおおきになりまさる。 みつきばかりになるほどに、よきほどなるひとになりぬれば、かみあげなどそうして、かみあげさせもぎす。 ちょう[とばり]のうちよりもいださず、いつきやしなう。 このこのかたちきょうら(きよら)なることよになく、やのうちはくらきところなくひかりみちたり。 おきなここちあしくくるしきときも、このこをみればくるしきこともやみぬ。 はらだたしきこともなぐさみけり。 おきな、たけをとることひさしくなりぬ。 いきおいもうのものになりにけり。 このこいとおおきになりぬれば、なお(を)ばみむろのいんべのあきたお(を)よびてつけさす。 あきたなよたけのかぐやひめとつけつ。 このほどみっかうちあげあそぶ。 よろずのあそびお(を)ぞしける。 おとこおうなきらわずよびつどいて、いとかしこくあそぶ。 >音読するときの現代仮名遣いでおねがします。 音読の音(現代仮名遣い)、[選択肢]。 いまわ(は)むかし、たけとりのおきなというものありけり。 のやまにまじりてたけお(を)とりつつ、よろずのことにつかいけり。 なお(を)ばさぬきのみやつことなんいいける。 そのたけのなかに、もとひかるたけひとすじありけり。 あやしがりてよりてみるに、つつのなかひかりたり。 それお(を)みれば、さんずんばかりなるひといとうつくしゅうていたり。 おきなゆ(い)うよう、 「われあさごとゆうごとにみるたけの...

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