黒い砂漠 労役の苦情。 2019年のF1放送は「スピード感やサウンドの改善」「レース戦略に関する情報の表示」など変化がありそう|GoAuto

公害・労災・職業病年表 (すいれん舎): 2007|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

黒い砂漠 労役の苦情

暴風雨 雲は海をあっし海は雲をける。 ぼうぼうたる南太平洋の 大海原 ( おおうなばら )に、もう月もなければ星もない。 たけりくるう 嵐 ( あらし )にもまれて 黒暗々 ( こくあんあん )たる 波濤 ( はとう )のなかを、さながら 木 ( こ )の葉のごとくはしりゆく小船がある。 時は三月の 初旬 ( しょじゅん )、日本はまだ寒いが、南半球は九月のごとくあたたかい。 船は一上一下、 奈落 ( ならく )の底にしずむかと思えばまた九天にゆりあげられる、 嵐 ( あらし )はますますふきつのり、 雷鳴 ( らいめい )すさまじくとどろいていなづまは雲をつんざくごとに 毒蛇 ( どくじゃ )の舌のごとくひらめく。 この一 閃 ( せん )々 々 ( せん )の光の下に、 必死 ( ひっし )となってかじをとりつつある、四人の少年の顔が見える。 みよしに近く立っているのは、日本の少年 大和富士男 ( やまとふじお )である。 そのつぎにあるは英国少年ゴルドンで、そのつぎは米国少年ドノバンで、最後に 帆綱 ( ほづな )をにぎっているのは、黒人モコウである。 富士男は十五歳、ゴルドンは十六歳、ドノバンは十五歳、モコウは十四歳である。 とつぜん大きな波は、黒雲をかすめて百千の 猛獣 ( もうじゅう )の 群 ( む )れのごとく、おしよせてきた。 「きたぞ、気をつけい」 富士男はさけんだ。 「さあこい、なんでもこい」 とゴルドンは身がまえた。 同時に百トンの二本マストのヨットは、さかしまにあおりたてられた。 「だいじょうぶか、ドノバン」 富士男は 暗 ( やみ )のなかをすかして見ながらいった。 「だいじょうぶだ」 ドノバンの声である。 「モコウ! どうした」 「だいじょうぶですぼっちゃん」 モコウは 帆綱 ( ほづな )にぶらさがりながらいった。 「もうすこしだ、がまんしろ」 富士男はこういった、だがかれは、じっさいどれだけがまんすれば、この嵐がやむのかが、わからなかった。 わからなくても 戦 ( たたか )わねばならぬ、自分ひとりではない、ここに三人がいる、 船底 ( ふなぞこ )にはさらに十一人の少年がいる、 同士 ( どうし )のためにはけっして心配そうな顔を見せてはならぬのだ。 かれは大きな 責任 ( せきにん )を感ずるとともに、勇気がますます加わった。 このとき、船室に通ずる階段口のふたがぱっとあいて、二人の少年の顔があらわれた。 同時に一頭のいぬがまっさきにとびだしてきた。 「どうしてきた」と富士男は声をかけた。 「富士男君、船がしずむんじゃない?」 十一、二歳の支那少年 善金 ( ゼンキン )はおずおずしながらいった。 「だいじょうぶだ、安心して船室にねていたまえ」 「でもなんだかこわい」 といまひとりの 支那 ( しな )少年 伊孫 ( イーソン )がいった。 「だまって眼をつぶってねていたまえ、なんでもないんだから」 このときモコウはさけんだ。 「やあ、大きなやつがきましたぜ」 というまもなく、船より数十倍もある大きな波が、とものほうをゆすぶってすぎた。 ふたりの支那少年は声をたててさけんだ。 「だから船室へかえれというに、きかないのか」 富士男はしかるようにいった、 善金 ( ゼンキン )と 伊孫 ( イーソン )はふたたび階段のふたの下へひっこんだ、とすぐまたひとりの少年があらわれた。 「富士男君、ぼくにもすこしてつだわしてくれ」 「おうバクスター、心配することはないよ、ここはぼくら四人で十分だから、きみは幼年たちを 看護 ( かんご )してくれたまえ」 仏国 ( ふつこく )少年バクスターはだまって階段をおりた。 嵐 ( あらし )は 刻 ( こく )一 刻 ( こく )にその勢いをたくましゅうした。 船の名はサクラ号である。 ちょうどさくらの花びらのように船はいま波のしぶきにきえなんとしている。 とものマストは二日まえに吹き折られて、その 根元 ( ねもと )だけが四 尺 ( しゃく )ばかり、 甲板 ( かんぱん )にのこっている、たのむはただ前方のマストだけである、しかもこのマストの運命は 眼前 ( がんぜん )にせまっている。 海がしずかなときには、ガラスのようにたいらな 波上 ( はじょう )を、いっぱいに帆を張って走るほど、 愉快 ( ゆかい )なものはない。 だがへいそに船をたすける帆は、あらしのときにはこれほど有害なものはない、帆にうける風のために船がくつがえるのである。 だが、十六歳を 頭 ( かしら )にした十五人の少年の力では、帆をまきおろすことはとうていできない。 見る見るマストは 満帆 ( まんぱん )の風に吹きたわめられて、その根元は右に動き左に動き、ギイギイとものすごい音をたてる。 もしマストが折れたら船には一本のマストもなくなる、このまま手をむなしくして、 波濤 ( はとう )の底にしずむのをまつよりほかはないのだ。 「もう夜が明けないかなあ」 ドノバンがいった。 「いや、まだです」 と黒人のモコウがいった。 そうして四人は 前方 ( ぜんぽう )を見やった。 海はいぜんとしてうるしのごときやみである。 とつぜんおそろしいひびきがおこった。 「たおれたッ」とドノバンがさけんだ。 「マストか?」 「いや、帆が 破 ( やぶ )れたんだ」 とゴルドンがいった。 「それじゃ帆をそっくり切りとらなきゃいかん、ゴルドン、きみはドノバンといっしょに、ここでハンドルをとってくれたまえ、ぼくは帆を切るから……モコウ! ぼくといっしょにこいよ」 富士男は、こういって 決然 ( けつぜん )と立った。 かれはおさないときから父にしたがって、いくたびか、シドニーとニュージーランドのあいだを航海した。 そのごうまいな 日本魂 ( にっぽんだましい )と、 強烈 ( きょうれつ )な研究心は、かれに航海上の 大胆 ( だいたん )と 知識 ( ちしき )をあたえた。 十四人の少年が、かれをこのサクラ号の 指揮者 ( しきしゃ )となしたのも、これがためである。 モコウはおさないときに船のボーイであったので、これも船のことにはなれている。 ふたりは 前檣 ( ぜんしょう )の下へきて、その 破損 ( はそん )の 個所 ( かしょ )をあらためてみると、帆は上方のなわが 断 ( き )れているが、下のほうだけがさいわいに、 帆桁 ( ほげた )にむすびついてあった。 ふたりは一生けんめいに、 上辺 ( じょうへん )のなわを切りはなした。 帆は風にまかせて 半空 ( はんくう )にひるがえった。 ふたりはようやくそれをつかんで、下から四、五尺までの高さに 帆桁 ( ほげた )をおろし、帆の上端を 甲板 ( かんぱん )にむすびつけた。 これで船は風に対する 抵抗力 ( ていこうりょく )が 減 ( げん )じ、 動揺 ( どうよう )もいくぶんか減ずるようになった。 ふたりがこの仕事をおわるあいだ、ずいぶん長い時間を要した。 大きな波は、いくどもいくどもふたりをおそうた。 ふたりは 帆綱 ( ほづな )をしっかりとにぎりながら、 危難 ( きなん )をさけた。 仕事がおわってふたりはハンドルのところへ帰ると、階段の口があいて、そこからまっ黒な 髪 ( かみ )をして、まるまるとふとった少年の顔があらわれた。 それは富士男の弟次郎である。 「次郎、どうしてきた」 と兄はとがめるようにいった。 「たいへんだたいへんだ、兄さん、水が船室にはいったよ」 「ほんとうか」 富士男はおどろいて階段をおりた。 もし 浸水 ( しんすい )がほんとうなら、この船の運命は五分間でおわるのである。 船室のまんなかの柱には、ランプが一つかかってある。 そのおぼつかないうすい光の下に、十人の少年のすがたをかすかに見ることができる。 ひとりは長いすに、ひとりは 寝台 ( しんだい )に、九歳や十歳になる幼年たちは、ただ 恐怖 ( きょうふ )のあまりに、たがいにだきあってふるえている。 富士男はそれを見ていっそう勇気を感じた。 「このおさない人たちをどうしても救わなきゃならない」 かれはこう思って、わざと 微笑 ( びしょう )していった。 「心配することはないよ、もうじき陸だから」 かれはろうそくをともして室内のすみずみをあらためた、いかにも室内にすこしばかりの水たまりができている、船の 動揺 ( どうよう )につれて水は右にかたむき左にかたむく。 だが、それはどこからはいってきたのかは、いっこうにわからない。 「はてな」 かれは頭をかしげて考えた。 するとかれはこのとき、海水にぬれた 壁 ( かべ )のあとをおうて眼をだんだんに上へうつしたとき、水は階段の上の口、すなわち 甲板 ( かんぱん )への出入り口から下へ落ちてきたのだとわかった。 「なんでもないよ」 富士男は一同に 浸水 ( しんすい )のゆらいを語って安心をあたえ、それからふたたび甲板へ出た。 夜はもう一時ごろである。 天 ( そら )はますます黒く、風はますますはげしい。 波濤 ( はとう )の音、船の動く音、そのあいだにきこえるのは海つばめの鳴き声である。 海つばめの声がきこえたからといって、陸が近いと思うてはならぬ、海つばめはおりおりずいぶん遠くまで 遠征 ( えんせい )することがあるものだ。 と、またもやごうぜんたる音がして、 全船 ( ぜんせん )が 震動 ( しんどう )した、同時に船は、木の葉のごとく 巨濤 ( きょとう )の 穂 ( ほ )にのせられて、 中天 ( ちゅうてん )にあおられた。 たのみになした 前檣 ( ぜんしょう )が二つに折れたのである。 帆はずたずたにさけ、 落花 ( らっか )のごとく雲をかすめてちった。 「だめだ」とドノバンはさけんだ。 「もうだめだ」 「なあにだいじょうぶだ、帆がなくてもあっても同じことだ、元気で乗りきろう」 と富士男はいった。 「いいあんばいに 追風 ( おいて )になりました。 一直線にゆくことができます」とモコウはいった。 「だが、気をつけろよ、船より波のほうが早いから、うしろからかぶさってくる波にからだをさらわれないように、 帆綱 ( ほづな )にからだをゆわえつけろよ」 富士男のことばがおわるかおわらないうちに、大山のごとき 怒濤 ( どとう )が、もくもくとおしよせたかと見るまに、どしんと 甲板 ( かんぱん )の上に落ちかかった。 同時にライフ・ボート三せき、ボート二せきと 羅針盤 ( らしんばん )をあらいさり、あまる力で船べりをうちくだいた。 「ドノバン、だいじょうぶか?」 富士男はころびながら友を 案 ( あん )じていった。 「ああだいじょうぶだ。 ゴルドン!」 「ここにいるよ、モコウは?」 モコウの声はない。 「おやッ、モコウは?」 富士男は立ちなおってさけんだ。 「モコウ! モコウ! モコウ!」 よべどさけべど、こたうるものは、 狂瀾怒濤 ( きょうらんどとう )のみである。 「波にさらわれた!」 ゴルドンはふなばたから下を見おろしていった。 「なんにも見えない」 「 救 ( すく )わなきゃならない、浮き袋と 縄 ( なわ )を投げこめよ」と富士男はいった、そうしてまたさけんだ。 「モコウ! モコウ!」 どこからとなくうなり声がきこえた。 「た、た、助けて!」 「おうモコウ!」 声はみよしのほうである、みよしは波にへりをくだかれてから、だれもゆくことができなくなった。 「みよしだ、ぼくはゆかなきゃならん」 富士男はいった。 「あぶないよ」 とドノバンがいった。 「あぶなくてもゆかなきゃならん」 モコウは富士男の家につかわれている 小僧 ( こぞう )で、昔ふうにいえば、 主従 ( しゅじゅう )の関係である、だが富士男は、モコウをけっして 奴隷的 ( どれいてき )に見なしたことはない。 かれは 白皙人 ( はくせきじん )も黄色人も黒人も、人間はすべて同一の自由と 権利 ( けんり )をもち、おたがいにそれを 尊敬 ( そんけい )せねばならぬと信じている。 世界の人種は 平等 ( びょうどう )である、人種によって 待遇 ( たいぐう )を別にしてはならぬ。 これはかれが平素その父から教えられたところである。 かれはモコウに対しても、いつも親友の愛情をそそいでいる。 友を救うためには、 自己 ( じこ )の 危難 ( きなん )をかえりみるべきでない、 義侠 ( ぎきょう )の血をうけた富士男の 意気 ( いき )は、りんぜんとして五体にみちた。 かれは 面 ( おもて )もふらずまっすぐに、甲板の上をつたいつたい船首のほうへ走った。 「モコウ! モコウ!」 返事がない。 「モコウ! モコウ!」 声はしだいに涙をおびた。 とかすかなうなり声がふたたびきこえた。 「モコウ!」 富士男は声をたよりに 巻 ( ま )きろくろとみよしのあいだにあゆみよった。 「モコウ!」 一度きこえたうなり声はふたたびきこえなくなった。 「モコウ!」 声のかぎりさけびつづけてみよしへ進まんとした一せつな、かれはなにものかにつまずいて、あやうくふみとどまった。 「ううううう」 つまずかれたのは、モコウのからだであった。 「モコウ! どうした」 富士男は喜びのあまりだきついた。 モコウは 巨濤 ( おおなみ )にうちたおされたひょうしに、 帆綱 ( ほづな ) [#ルビの「ほづな」は底本では「ほずな」]にのどをしめられたのであった、かれはそれをはずそうともがくたびに、船の 動揺 ( どうよう )につれて、綱がますます きつくひきしまるので、いまはまったく 呼吸 ( いき )もたえだえになっていた。 「待て待て」 富士男はナイフを出して 帆綱 ( ほづな )を切った。 「ああ、ありがとう」 モコウは富士男の手をかたくにぎったが、あとは 感謝 ( かんしゃ )の涙にむせんだ。 ふたりはハンドルの下に帰った、だが 嵐 ( あらし )はいつやむであろうか。 南半球の三月は北半球の九月である。 夜が明けるのは五時ごろになる。 「夜が明けたらなんとかなるだろう」 少年たちの希望はただこれである、荒れに荒れくるう 黒暗々 ( こくあんあん )の東のほうに、やがて一 曳 ( えい )の 微明 ( びめい )がただよいだした。 「おう、夜が明けた」 一同が 歓喜 ( かんき )の声をあげた。 あかつきの色はしだいに青白くなり、ばら色になり、雲のすきますきまが明るくなると、はやてに吹きとばされるちぎれ雲は、矢よりもはやく見える。 だが第二の 失望 ( しつぼう )がきた。 夜は明けたが 濃霧 ( のうむ )が 煙幕 ( えんまく )のごとくとざして、一寸先も見えない、むろん陸地の影など、見分くべくもない。 しかもいぜんとして風はやまぬ。 四人の少年はぼうぜんとして 甲板 ( かんぱん )に立った。 かれらはいよいよ 絶望 ( ぜつぼう )の期がせまったと 自覚 ( じかく )した。 そのときモコウは大きな声でさけんだ。 「陸だ! 陸だ!」 「何をいうかモコウ」とドノバンは笑った。 じっさい、べきべきたる 濃霧 ( のうむ )の 白 ( はく )一 白 ( ぱく )よりほかは、なにものも見えないのである。 「モコウ、きみの気のせいだよ」 「いやいや」 とモコウは頭をふって、東のほうを 指 ( ゆび )さした。 「陸です、たしかに」 「君の眼はどうかしてるよ」 「いや、ドノバン、 霧 ( きり )が風に吹かれてすこしうすくなったとき、みよしのすこし左のほうをごらんなさい」 このとき 煙霧 ( えんむ )は風につれて、しだいしだいに動きだした。 綿のごとくやわらかにふわふわしたもの、ひとかたまりになって地図のごとくのびてゆくもの、こきものは 淡墨 ( うすずみ )となり、うすきものは 白絹 ( しらぎぬ )となり、 疾 ( と )きものはせつなの光となり、ゆるきものは雲の尾にまぎれる、 巻々舒々 ( かんかんじょじょ )、あるいは 合 ( がっ )し、あるいははなれ、 呼吸 ( いき )がつまりそうな霧のしぶきとなり、 白紗 ( はくさ )のとばりに夢のなかをゆく夢のまた夢のような気持ちになる。 霧が雨になり、雨が霧になり、雨と霧が 交互 ( こうご )にたわむれて半天にかけまわれば、その下におどる 白泡 ( しらあわ )の 狂瀾 ( きょうらん )がしだいしだいに青みにかえって、船は白と青とのあいだを一直線にすすむ。 「おう、陸だ」 富士男はさけんだ。 見よ、煙霧の尾が海をはなるる切れ目の一せつなに、東の光をうけてこうごうしくかがやける水平線上の 陸影 ( りくえい )! 長さ約八キロもあろう。 「陸だ! 陸だ!」 声は全船にあふれた。 「ラスト・ヘビーだ!」 船はまっすぐに陸をのぞんで走った。 近づくままに 熟視 ( じゅくし )すると、岸には百 丈 ( じょう )の 岩壁 ( がんぺき )そばだち、その前面には黄色な砂地がそうて右方に 彎曲 ( わんきょく )している、そこには樹木がこんもりとしげって、暴風雨のあとの快晴の光をあびている。 富士男は 甲板 ( かんぱん )の上からしさいに観察して、いかりをおろすべきところがあるやいなやを考えた。 だが岸には港湾らしきものはない、なおその上に砂地の付近には、のこぎりの歯のような 岩礁 ( がんしょう )がところどころに 崛起 ( くっき )して、おしよせる波にものすごい 泡 ( あわ )をとばしている。 富士男はそこで、船室にひそんでいた十一人の少年たちを、 甲板 ( かんぱん )に集めることにした。 「おい、みんなこいよ」 少年たちはおどりあがって喜んだ。 まっさきにのぼってきたのは 猟犬 ( りょうけん )フハンである。 そのつぎには富士男の弟次郎、それから 支那 ( しな )少年 善金 ( ゼンキン )と 伊孫 ( イーソン )、イタリア少年ドールとコスターの十歳組、そのつぎにはフランス少年ガーネットとサービス、そのつぎにはドイツ少年ウエップとイルコック、おわりに米国少年グロースがのぼってきた。 かれらはいちように手をあげて 万歳 ( ばんざい )をとなえた。 午前六時、船はしずかに岸辺についた。 「気をつけろよ、岩が多いから乗りあげるかもしらん、そのときにあわてないように、浮き袋をしっかりとからだにつけていたまえ」 富士男は人々に注意した。 するすると船は進んだ、とつぜんかすかな音を 船底 ( せんてい )に感じた。 「しまった!」 船ははたして 暗礁 ( あんしょう )に乗り上げたのであった。 「モコウ、どうした」 「乗りあげましたが、たいしたことはありません」 じっさいそれは不幸中のさいわいであった、船は 暗礁 ( あんしょう )の上にすわったので、外部には少しぐらいの 損傷 ( そんしょう )があったが、 浸水 ( しんすい )するほどの 損害 ( そんがい )はなかった、だが動かなくなった船をどうするか。 船はなぎさまではまだ三百二、三十メートルほどもある、ボートはすべて波にさらわれてしまったので、岸へわたるには、ただ泳いでゆくよりほかに方法がない、このうち二、三人は泳げるとしても、十歳や十一歳の幼年をどうするか。 富士男はとほうにくれて、 甲板 ( かんぱん )をゆきつもどりつ 思案 ( しあん )にふけっていた。 とこのときかれはドノバンが大きな声で何かののしっているのをきいた。 なにごとだろうと富士男はそのほうにあゆみよると、ドノバンはまっかな顔をしてどなっていた。 「船をもっと出そうじゃないか」 「乗りあげたのだから出ません」 とモコウはいった。 「みんなで出るようにしようじゃないか」 「それはだめです」 「それじゃここから泳いでゆくことにしよう」 「 賛成 ( さんせい )賛成」 他の二、三人が賛成した。 もう海上を長いあいだ 漂流 ( ひょうりゅう )し、 暴風雨 ( ぼうふうう )と戦って 根気 ( こんき )もつきはてた少年どもは、いま眼前に陸地を見ると、もういても立ってもいられない。 「泳いでゆこう」 とドイツのイルコックがいった。 「ゆこうゆこう」 「待ってくれたまえ」と富士男は、少年どもの中へわってはいった。 「そんな 無謀 ( むぼう )なことをしてもしものことがあったらどうするか」 「だいじょうぶだ、ぼくは三キロぐらいは 平気 ( へいき )だから」とドノバンがいった。 「きみはだいじょうぶでも、ほかの人たちはそうはいかんよ、君にしたところでたいせつなからだだ、つまらない 冒険 ( ぼうけん )はおたがいにつつしもうじゃないか」 「だが、向こうへ泳ぐくらいは 冒険 ( ぼうけん )じゃないよ」 「ドノバン! きみにはご両親がある、祖国がある、 自重 ( じちょう )してくれたまえ」 「だがこのままにしたところで、船はだんだんかたむくばかりじゃないか、だまって 沈没 ( ちんぼつ )を待つのか」 「そうじゃないよ、いますこしたてば 干潮 ( かんちょう )になる、潮が引けばあるいはこのへんが浅くなり、 徒歩 ( とほ )で岸までゆけるかもしらん、それまで待つことにしようじゃないか」 「 潮 ( しお )が引かなかったらどうするか」 「そのときには別に考えることにしよう」 「そんな気の長い話はいやだ」 ドノバンはおそろしいけんまくで、富士男の説に反対した。 がんらいドノバンはいかなるばあいにおいても、自分が第一人者になろうという、アメリカ人特有のごうまんな 気性 ( きしょう )がある。 かれはこのために、これまで富士男と 衝突 ( しょうとつ )したのは、一、二度でなかった、そのたびごとにドノバンのしりおしをするのは、イルコック、ウエップのふたりのドイツ少年と、米国少年グロースであった。 かれらは航海のことについては、富士男やゴルドンほどの知識がなかった。 だから海上に 漂流 ( ひょうりゅう )しているあいだは、なにごとも富士男の意見にしたがってきたが、いま陸地を見ると、そろそろ 性来 ( せいらい )のわがままが頭をもたげてきたのである。 かれら四人は、ふんぜんと 群 ( む )れをはなれて 甲板 ( かんぱん )の片すみに立ち、 反抗 ( はんこう )の 気勢 ( きせい )を示そうとした。 「待ってくれたまえドノバン」 と富士男はげんしゅくな声でいった。 「ねえドノバン! きみはぼくを 誤解 ( ごかい )してるんじゃないか、ぼくらは 休暇 ( きゅうか )を利用して近海航行を計画したときに、たがいにちかった第一条は、友愛を主として 緩急 ( かんきゅう ) 相救 ( あいすく )い、死生をともにしようというのであった、もしわれわれのなかでひとりで 単独行為 ( たんどくこうい )にいずるがごとき人があったら、それはその人の不幸ばかりでなく、わが 少年連盟 ( しょうねんれんめい )の不幸だ、いまの時代は 自己 ( じこ )一 点張 ( てんば )りでは生きてゆけない、少年はたがいにひじをとり、かたをならべて、共同戦線に立たねばならぬのだ、ひとりの 滅亡 ( めつぼう )は万人の滅亡だ、ひとりの 損害 ( そんがい )は万人の損害だ、われわれ連盟は日本英国米国ドイツイタリアフランス支那インド、八ヵ国の少年をもって 組織 ( そしき )された世界少年の連盟だ、われわれはけっして 私情 ( しじょう )をはさんではいけない、もしぼくが私情がましき 行為 ( こうい )があったら、どうか 断乎 ( だんこ )として、僕を 責 ( せ )めてくれたまえ、ねえドノバン」 「わかったよ、だがきみは、なにもぼくらの自由を 束縛 ( そくばく )するような、法律をつくる権利がないじゃないか?」 ドノバンはいまいましそうにいった。 「権利とか義務とかいうのじゃないよ、ただぼくは、共同の安全のためには、おたがいに 分離 ( ぶんり )せぬように心を一にする必要があるというだけだ」 「そうだ、富士男の説は正しい」 と、へいそ 温厚 ( おんこう )な英国少年ゴルドンがいった。 「そうだそうだ」 幼年どもはいっせいにゴルドンに賛成した。 「ねえきみ、気持ちを悪くしてくれるなよ」 富士男はドノバンにいった、ドノバンは、それに答えなかった。 そもそもこの陸は大陸のつづきであるか、ただしは島であるか、第一に考えなければならないのは、この問題である。 富士男は北に高い丘をひかえ、 岩壁 ( がんぺき )の下に半月形にひらけた砂原を見やっていった。 「陸には一すじの煙も見えない、ここには人が住んでないと見える」 「人が住まないところに、舟が一そうだってあるものか」 とドノバンは 冷笑 ( れいしょう )した。 「いやそうとはいえまい」とゴルドンは 思案顔 ( しあんがお )に「昨夜の 嵐 ( あらし )におそれて舟が出ないのかもしらんよ」 三人が 議論 ( ぎろん )をしているあいだに、他の少年たちはもう上陸の 準備 ( じゅんび )にとりかかった。 固 ( かた )パン、ビスケット、ほしぶどう、かんづめ、 塩 ( しお )や砂糖、ほし肉、バタの類はそれぞれしばったり、つつんだり、 袋 ( ふくろ )にいれたり、早く潮がひけよとばかり待っていた。 七時になった。 だがいっこう潮が引かない、そのうえに船はますます左にかたむいて、 左舷 ( さげん )はがっくりと水に頭をひたした。 「だめだ」 黒少年モコウはあわただしくさけんだ。 それと同時に 船首 ( せんしゅ )のほうに立った仏国少年バクスターの口から、大きなさけびがおこった。 「しめたッ」 だめという声と、しめたという声! 人々はなんのことだかわからなかった。 「ボートがあるよ」 バクスターはふたたびさけんだ。 「ボート?」 少年たちの眼は急にいきかえった。 かれらは一度に船首に走った。 「あれ! あれだ」 いかにもバクスターのいうごとく、海水にあらいさられたと思った一せきのボートは、みよしのささえ柱のあいだにやっとはさまってぶらさがっていた。 「もうしめたぞ」 いままで 沈黙 ( ちんもく )していたドノバンは、まっさきにボートのほうへ走った。 イルコック、ウエップ、グロースの三人はそれにつづいた。 四人はえいえい声をあわしてボートを海上におろそうとした。 「それをどうするつもりか」 と富士男は声をかけた。 「何をしたっていいじゃないか」 とドノバンはふたたびけんかごしにいった。 「きみらはボートをおろすつもりなのか」 「そうだ、だがそれをとめる 権利 ( けんり )はきみにないはずだ」 「とめやしないが、ボートをおろすのはかってだが、きみらだけ上陸して、ほかの少年をすてる気ではあるまいね」 「むろんすてやしないよ、ぼくらが上陸してからだれかひとり、ボートをここへこぎもどして、つぎの人を 運 ( はこ )ぶつもりだ」 「それならまず第一に、いちばん年の少ない人たちから上陸さしてくれたまえ」 「それまでは 干渉 ( かんしょう )されたくないよ、小さい人たちを上陸さしたのでは役にたたない、まずぼくが先にいって陸地を 探検 ( たんけん )する」 「それはあまりに 利己主義 ( りこしゅぎ )だ、おさない人たちを先に救うのは、 人道 ( じんどう )じゃないか」 「人道とはなんだ」 ドノバンはかっとなってつめよった。 へいそなにごともドノバンにゆずっている富士男も、ドノバンの幼年者に対する 無慈悲 ( むじひ )な 挙動 ( きょどう )を見ると、心の底から 憤怒 ( ふんぬ )のほのおがもえあがった。 「きみはぼくのいうところがわからんのか」 富士男はしっかりと 腰 ( こし )をすえて、ドノバンが手を出すが最後、電光石火に、 甲板 ( かんぱん )の上にたたきのめしてやろうと身がまえた。 「待ってくれ待ってくれ、ドノバン、きみは悪いぞ、ボートは幼年者のものだ、年長者はいかなるばあいにも、年少者のぎせいにならねばならぬとは、昔からの 紳士道 ( しんしどう )じゃないか」 ゴルドンはこういって、ドノバンを 制 ( せい )した。 そうして富士男を片すみにひいてゆきながらささやいた。 「きみ、ボートは 危険 ( きけん )だ、あれを見たまえ、 潮 ( しお )はひいたが 暗礁 ( あんしょう )だらけだ、あれにかかるとボートはこなみじんになってしまうぞ」 「そうだ」 富士男はがっかりしていった。 「このうえはただ一つの 策 ( さく )があるばかりだ」 「どうすればいいか」 ゴルドンは心配そうに富士男の顔をみつめた。 「だれかひとり、 綱 ( つな )を持ってむこうの岸へ泳ぎつき、船と岸の岩に綱を張り渡すんだ、それから、年長者は一人ずつ幼年者をだいて、片手に綱をたどりながら岸へ泳ぎつくんだ」 「なるほど、それよりほかに方法がないね」 「では、そういうことにきめるか」 「だが、だれが第一番に綱を持って、むこうへ泳ぎつくか」 「むろんぼくだ」 富士男は 快然 ( かいぜん )として自分の胸をたたいた。 「きみが?」 ゴルドンの眼はきらきらとかがやいたが、やがて 熱 ( あつ )い涙がぼとぼととこぼれた。 「ドノバンは幼年者からボートを取ろうという、きみは幼年者のためにいちばんむずかしい役をひきうけようという、ぼくははじめて日本少年の 偉大 ( いだい )さを知ったよ」 「このくらいのことは、ぼくの国の少年は、ふつうになっているんだ、そんなことはとにかくとして、綱の用意をしてくれたまえ」 富士男は 上着 ( うわぎ )をするするとぬいだ。 探検 ( たんけん ) いまこの南太平洋を 漂流 ( ひょうりゅう )しつつある少年たちをもっとくわしく読者に 紹介 ( しょうかい )したいと思う。 諸君は世界の地図をひらくと、ずっと下のほうに、 胃袋 ( いぶくろ )のような形をした、大きな島を見ることであろう、これはオーストラリアである。 この島から右方のすこし下のほうに、ちょうど日本の形ににた島を見るであろう、これはニュージーランド島である。 この島から西方に、無数の小さな島がまめのごとくちらばっている、この 群島 ( ぐんとう )は、 南緯 ( なんい )三十四度から、四十五度のあいだにあるもので、北半球でいえば、ちょうど、日本やフランスと同じていどの 位置 ( いち )である。 少年連盟 ( しょうねんれんめい )が風雨と戦いつつあるところは、すなわちこの群島の 圏内 ( けんない )である。 このへんの正月は日本の七月ごろに相当する、かれらはことごとくニュージーランドに住む商人や 官吏 ( かんり )の子である。 ニュージーランドの 首府 ( しゅふ )オークランド市に、チェイマン学校という学校がある。 この学校は 寄宿制度 ( きしゅくせいど )であって、幼年から少年までを 収容 ( しゅうよう )して、 健全剛毅 ( けんぜんごうき )なる教育をほどこすのである。 されば全校の気風は勇気にとみ、また 慈愛 ( じあい )と友情にあつく、年長者は年少者を、弟のごとく 保護 ( ほご )し、年少者はまた、年長者を兄のごとく 尊敬 ( そんけい )する。 がんらいこの一帯は英国の 領地 ( りょうち )であるが、群島のうちには、 仏領 ( ふつりょう )もあり 米領 ( べいりょう )もある。 日本はこのうちの一島をも有せぬ、しかし 進取 ( しんしゅ )の気にとむ日本人は、けっしてこの島をみのがすようなことはなかった。 商人はどしどし 貿易 ( ぼうえき )の 途 ( みち )をひらく、学者工業家漁業家も、日本からゆくものしだいに増加しつつある。 大和富士男と次郎の父は、日本から 招聘 ( しょうへい )せられた工学者で、この島へきてからもはや、二十年の月日はすぎた、かれは 温厚 ( おんこう )のひとでかつ 義侠心 ( ぎきょうしん )が強いところから、日本を代表する 名誉 ( めいよ )の 紳士 ( しんし )として、一般の 尊敬 ( そんけい )をうけている。 その子の富士男はことし十五歳、学校はいつも 優等 ( ゆうとう )であるうえに、 活発 ( かっぱつ )で明るく、年少者に対してはとくに 慈愛 ( じあい )が深いところから、全校生徒が 心服 ( しんぷく )している。 弟の次郎はやっと十歳で、こっけいなことといたずらがすきであるが、船が本土をはなれてから急にだまりこんで、ちがった人のようになった。 このふたりの兄弟を主人として、忠実につかえているのは、モコウという黒人の子である。 モコウは両親もなき 孤児 ( こじ )で船のコックになったり、 労役 ( ろうえき )の 奴隷 ( どれい )になったりしていたが、富士男の父に救われてから幸福な月日をおくっている。 ところが 人心 ( じんしん )はその面のごとし、十人よれば十人ともその心が同一でない、同じ友だちのドノバンは、なにからなにまで、富士男に反対であった。 日本のことばにアマノジャクというのがある、他人が白といえば黒といったり、他人が右へいこうというと、イヤぼくは左へゆくといったり、いつも他人に反対して、自分のわがままをつらぬこうとする。 ドノバンはいわゆるアマノジャクで、そのごうまんな米国ふうの 気質 ( きしつ )から、いつも富士男を 圧迫 ( あっぱく )して自分が連盟の 大将 ( たいしょう )になろうとするくせがある。 富士男が一同に尊敬せらるるのを見ると、かれは 嫉妬 ( しっと )にたえられぬのであった。 このいとうべき 性癖 ( せいへき )があるドノバンに、なにからなにまで敬服しているのは、そのいとこのグロースであった。 グロースはなんでも他人に感服するくせがある。 かれには自分の考えというものはなく、ただドノバンのいうがままにしたがうのである。 この三人は同年で十五歳だが、いま一人、十六歳の少年ゴルドンがある、かれは英国人の子で、幼にして両親にわかれ、いまでは他人の手にそだてられているが、 天稟 ( てんぴん )の正直と温和で 謙遜 ( けんそん )で 冷静 ( れいせい )な点において、なんぴとからも尊敬せられ、とくに富士男とは親しいあいだがらである。 その他の少年をいちいち 紹介 ( しょうかい )するために、 国籍 ( こくせき )と 年齢 ( ねんれい )を左に 略記 ( りゃっき )する。 日本 大和富士男(一五) 同弟次郎(一〇) アメリカ ドノバン(一五) グロース(一五) イギリス ゴルドン(一六) フランス ガーネット(一四) サービス(一四) バクスター(一四) ドイツ ウエップ(一四) イルコック(一五) イタリア ドール(一〇) コスター(一〇) シナ 善金 ( ゼンキン )(一一) 伊孫 ( イーソン )(一一) インド モコウ(一四) 猟犬 ( りょうけん ) フハン 船の名はサクラ号である。 それは、富士男の父の所有する、スクーナーと 称 ( しょう )する 帆船 ( はんせん )で、この団体は夏期休暇を利用して、近海航行についたのが 暴風雨 ( ぼうふうう )になやまされて、東へ東へと流されたのであった。 サクラ号がゆくえ知れなくなったとき、一行の父兄たちは、死に物ぐるいになって 捜索 ( そうさく )をはじめたが、なんの手がかりもえなかった。 一ヵ月後にサクラ号としるした 船尾 ( せんび )の板が、ある海岸に 漂着 ( ひょうちゃく )したので、父兄たちはもう捜索の 絶望 ( ぜつぼう )を感じた。 市 ( まち )の人々は、涙ながらに少年たちの 追善 ( ついぜん )をやっているとき、富士男はサクラ号のふなばたに立って、きっと 泡 ( あわ )だつ 怒濤 ( どとう )をみつめていた。 平和な海面なら、綱を持って 対岸 ( たいがん )まで泳ぎつくことは、 至難 ( しなん )でない、だが 嵐 ( あらし )のあとの海は、まだ 獰悪 ( どうあく )である。 幾千とも知れぬ大岩小岩につきあたる波は、十 丈 ( じょう )の高さまでおどりあがっては、 瀑 ( たき )のごとく落下し、すさまじい白い泡と 音響 ( おんきょう )をたてて、くだけてはちり、ちってはよせる。 おそろしい 怒濤 ( どとう )の力! もしそれにひかれて岩角にたたきつけられたら、富士男のからだはこっぱみじんになる。 「兄さん、いっちゃいけない」 と次郎は兄のそばへ走ってさけんだ。 「いいよ、心配すな、次郎!」 富士男はわざと 微笑 ( びしょう )をむけて、弟の頭をなでた。 「だいじょうぶかえ」 とゴルドンはいった。 「やるよりしようがない、これが 最善 ( さいぜん )の道だと考えた以上は、死んでもやらなきゃならない」 「しかし……」 「ゴルドン、安心してくれたまえ、ぼくは父からきいたが、日本のことわざに、『義を見てなさざるは勇なきなり』というのがあるそうだ」 富士男は綱をくるくるとからだにまきつけた。 「よしッ、いってくれ」 とゴルドンはいった、その声がおわらぬうちに、富士男はざんぶと水におどりこんだ。 「やった!」 一同はふなばたに立って、富士男のすがたをみつめた、富士男はみごとに抜き手をきって泳ぎだした。 「だいじょうぶ? ゴルドン?」 と次郎はまっさおになってきいた。 「ああたぶん……」 ゴルドンは富士男のすがたからすこしも眼をはなさずにいった。 そうして綱をするすると送りだした。 だがかれはこのとき思わず「あっ」と声をあげた。 いましも富士男の行く手に、むくむくとふくれあがった、 巨大 ( きょだい )な波が見えた、風は引き潮とあいうって、巨大な波のうしろに、より巨大な波がおそいかけている。 しかもそれは、岩と岩のあいだを通ってくるはげしき波とつきあたるが 最期 ( さいご )、そこに大きな波のくぼみができるにそういない、それにひきこまれたら、鉄のからだでもたまったものでない。 「気をつけい!」 ゴルドンは声をかぎりにさけんだ、だがその声は、すぐおどろきの 叫喚 ( きょうかん )にかわった。 「やられたッ」 いかにも富士男のからだは、まったく 白泡 ( しらあわ )のなかに、のまれてしまったのである。 「ひけッひけッひけッ!」 モコウはまっさきにとんできて、綱をひいた、ゴルドン、サービス、ガーネット、いずれも死に物ぐるいになって綱をひいた。 やがてふなばた近く、富士男のからだがあらわれた。 「 残念 ( ざんねん )だッ」 かれは波にぬれた頭をふっていった。 「しかたがないよ」 「うん」 富士男は船にあがるやいなや、ばったりたおれたまま、ものもいえなかった。 陸との交通は、まったく 絶望 ( ぜつぼう )におわった。 しかも 正午 ( ひる )すぎになると、潮は見る見るさしはじめて、波はますますあらくなった。 このままにうちすてておくと、 満潮 ( まんちょう )にさらわれて、船が他の岩角にたたきつけられるのは、わかりきったことである。 一同は不安の胸をとどろかしながら、だまって 甲板 ( かんぱん )に立ったまま、ただ天にいのるよりほかはなかった。 「ちいさい人たちだけは助けたいものだなあ」 富士男はやっとつかれから 回復 ( かいふく )していった。 「ぼくらが助からないのに、ちいさいやつらが助かるかい」 とドノバンはいった。 このとき 異様 ( いよう )な 震動 ( しんどう )とともに、幼年者たちの泣き声がきこえた。 「 巨波 ( おおなみ )がきた! 巨波がきた!」 幼年者はたがいに、しっかりとだきあった。 「死ぬならいっしょだ」 とゴルドンがさけんだ。 船はギイギイと二度ばかり音をたてた、 岩礁 ( がんしょう )の上は、まったく雪のごとき 噴沫 ( ふんまつ )におおわれた、ゴウッというけたたましいひびきとともに、船はふわふわと 半天 ( はんてん )にゆりあげられる。 と思うまもなく、モコウのさけび声がきこえた。 「しめたッ」 もう死なばもろともと、眼をつぶっていた少年たちは、一度にたちあがった。 「浜へきた!」 悲しみの声は、一度に笑いの声となった。 「やあふしぎだ」 「波があの大きな岩をこえて、船を砂浜へ運んでくれたのだ」 「バンザアイ」 一同は思わずさけんだ。 「まったく 天佑 ( てんゆう )だ」 富士男はこういってゴルドンにむかい、 「だが船は、ふたたび波にさらわれるかもしれない、とにかく、さしむき、ちいさい人たちの住まいを、きめなきゃならんね、きみとふたりで 探検 ( たんけん )しようじゃないか」 「うん、ぼくもそう思ってたところだ」 ふたりは 甲板 ( かんぱん )をおりて、森のほうをさして歩きだした。 森のかなたには小さな川がある。 もしこの地に人が住んでいるなら、川口に舟の一そうや二そうは見えべきはずだが、いっこうそれらしきものも見えない。 ふたりがだんだん森をわけてゆくと、樹木は 太古 ( たいこ )のかげこまやかに、落ち葉は高くつみかさなったまま、ふたりのひざを没するばかりにくさっている。 右を見ても左を見ても、人かげがない、 寂々寥々 ( せきせきりょうりょう )、まれに飛びすぐるは、名もなき小鳥だけである。 森をいでて川にそうてゆくと、びょうびょうたる平原である、これではまったく無人島にちがいない、むろん住むべき家があるべきはずがない。 「やっぱり船にとまることにしよう」 ふたりは船へ帰って、一同にこのことをかたり、それから急に、 修繕 ( しゅうぜん )にとりかかった。 船はキールをくだかれ、そのうえに船体ががっくりと 傾斜 ( けいしゃ )したものの、しかし風雨をふせぐには十分であった。 まず 縄梯子 ( なわばしご )を右のふなばたにかけたので、幼年組は先をあらそうて梯子をおり、ひさしぶりで、陸地をふむうれしさに、貝を拾ったり、 海草 ( かいそう )を集めたりして、のどかな 唄 ( うた )とともに、活気が急に全員の顔によみがえった。 モコウはさっそく、サービスの手を借りて、じまんの料理をつくった。 富士男、ゴルドン、ドノバンの三人は、もしも 猛獣 ( もうじゅう )や 蕃人 ( ばんじん )などが 襲来 ( しゅうらい )しはせぬかと、かわるがわる甲板に、見張りをすることにきめた。 翌日富士男は、おもむろに 持久 ( じきゅう )の 策 ( さく )をこうじた、まず第一に必要なのは、食料品である。 船の所蔵品をしらべると、ビスケット、ハム、 腸 ( ちょう )づめ、コーンビーフ、魚のかんづめ、 野菜 ( やさい )等、 倹約 ( けんやく )すれば二ヵ月分はある。 だがそのあいだに、 銃猟 ( じゅうりょう )や魚つりでもっておぎないをせねばならぬ、かれは幼年組につり道具をやって、モコウとともに魚つりにだしてやった。 それからかれは、他の物品を 点検 ( てんけん )した。 大小の 帆布 ( はんぷ )、 縄類 ( なわるい )、鉄くさり、いかり一式、 投網 ( とあみ )、つり糸、 漁具 ( りょうぐ )一式、スナイドル銃八ちょう、ピストル一ダース、火薬二はこ、 鉛類 ( えんるい ) 若干 ( じゃっかん )。 信号用ののろし具一式、船上の大砲の火薬および 弾丸 ( だんがん )。 食器類一式。 毛布、綿、フランネル、大小ふとん、まくら。 晴雨計二、寒暖計一、時計二、メガホン三、コンパス十二、 暴風雨計 ( ぼうふううけい )一、日本国旗と各国旗 若干 ( じゃっかん )、信号旗一式、 大工道具 ( だいくどうぐ )、はり、いと、マッチ、ひうち石、ボタン。 ニュージーランド 沿岸 ( えんがん )の地図、世界地図、インキ、ペン、 鉛筆 ( えんぴつ )、紙、ぶどう酒。 英貨 ( えいか ) 若干 ( じゃっかん )。 正午 ( ひる )ごろにモコウは、幼年組をつれて、たくさんの貝を拾って帰ってきた、モコウの話によると、 岩壁 ( がんぺき )のところに、数千のはとが遊んでいるというので、 猟 ( りょう )じまんのドノバンは、あす猟にゆくことにきめた。 この夜は、バクスターとイルコックが、 甲板 ( かんぱん )に見張りした。 そもそもこの地は、はなれ島であるか、大陸つづきであるか、それをきわめることがもっともたいせつである。 富士男は毎日その研究に 没頭 ( ぼっとう )していたが、ある日ゴルドン、ドノバンのふたりにこういった。 「どう考えてもここは熱帯地でないように思う」 「ぼくは熱帯だと思うが、きみはなんの理由でそんなことをいうか」 と例のドノバンは、まず 反対的態度 ( はんたいてきたいど )でいった。 富士男は微笑しながら、 「ここには、かしわ、かば、まつ、ひのき、ぶなの木などが非常に多い、これらの樹木は太平洋中の 赤道国 ( せきどうこく )には、ぜったい見ることができない樹木だ」 「それじゃどこだというのか」 「まつ、ひのきのほかの木がみな、落葉したり、紅葉したりしてるところを見ると、ニュージーランドよりも、もっと南のほうの 高緯度 ( こういど )だろうと思う」 「もしそうだとすると」とゴルドンは、 双方 ( そうほう )の 争 ( あらそ )いをなだめながら、 「冬になるとひじょうに寒くなるだろう、いまは三月 中旬 ( ちゅうじゅん )だから、四月の下旬までは好天気がつづくだろうが、五月(北半球の十一月)以後になると、どんなに気候が変わるかもしらん。 そうすると、とてもぐずぐずしていられない、おそくとも六週間以内にはこの地を去るとか、ただしは冬ごもりをするかを、きめなければならん」 いかにもゴルドンの心配は、むりからぬことである。 さすがのドノバンも、だまってしまった。 いまは、一日のゆうよすべきばあいでない、富士男は毎日、丘にのぼって、四方を 展望 ( てんぼう )した。 ある日かれは、森のかなたに、ほのめく一 条 ( じょう )のうす青い影を発見した。 夕日はかたむくにつれて、影がしだいにはっきりして、ぬぐうがごとき一天の色と、わずかに一すじの線をひくのみである。 「海だ!」 かれは思わずさけんだ。 「海だ!」 もし海とすると、この地は大陸つづきでなく、四方海をめぐらす、はなれ小島であると、思わざるをえない。 かれは丘をおりてサクラ号に帰り、一同にこのことを語ると、一同はあっといったきり、ものもいえなかった。 無人島! 家もなく人もない、いよいよ救わるべき見こみはなくなった。 「そんなことはない」 とドノバンはいった。 「いやたしかに海だ」 「よし、それじゃいけるところまでいって、その 実否 ( じっぴ )をたしかめることにしよう」 「よし、いこう」 遠征委員 ( えんせいいいん )には、富士男とドノバンのほかに、ドイツ少年のイルコックと、仏国少年のサービスが、ついてゆくことにきめた。 ゴルドンもゆきたかったが、かれはるすの少年を保護せねばならぬので、富士男を 小陰 ( こかげ )によんで、ひそやかにいった。 「どうか、ドノバンとけんかしないようにしてくれたまえね」 「むろんだ、ドノバンはただいばりたいのが病で、 性質 ( せいしつ )は善良なんだから、ぼくはなんとも思っていないよ」 「それでぼくも安心したが、少年 連盟 ( れんめい )はぼくら三人が年長者だからね、きみとドノバンと仲が悪くなると、まったくみんなが心細がるよ」 「連盟のためには、どんなことでも、しのばなきゃならんよ」 「それで安心した」 じっさいもう一と月のうちに、一同の住居する土地をきめねばならぬ、サクラ号の 損所 ( そんしょ )はだんだんはげしくなる、このぶんでは、一と月ももたぬかもしれぬのだ。 四人は四日分の 食料 ( しょくりょう )を 準備 ( じゅんび )した、めいめい一ちょうの 旋条銃 ( せんじょうじゅう )と、短 銃 ( じゅう )をたずさえ、ほかに 斧 ( おの )、 磁石 ( じしゃく )、 望遠鏡 ( ぼうえんきょう )、 毛布 ( もうふ )などを持ってゆくことにした。 いよいよあすは出発という日の夕方、一同はこわれた 甲板 ( かんぱん )に 食卓 ( しょくたく )をならべて、しばらくの別れをおしんだ。 旅程 ( りょてい )は四日だが、名も知らぬ土地である。 河また河、谷また谷、ぼうぼうたる草は身を没して怪 禽 ( きん )昼も 鳴 ( な )く、そのあいだ 猛獣 ( もうじゅう ) 毒蛇 ( どくじゃ )のおそれがある、 蕃人 ( ばんじん ) 襲来 ( しゅうらい )のおそれもある。 しばしの別れだが、使命は重かつ大、どこでどんな 災殃 ( さいおう )にあうかもしれぬのだ。 ゆくものも 暗然 ( あんぜん )たり、とどまるものも暗然たり、天には一点の雲もなく、南半球の群星はまめをまいたように、さんぜんとかがやいている。 そのなかにとくに目をひくは、南半球においてのみあおぎみることのできる、南十字星である。 「どうかぶじに帰ってくれ」 「おみやげたのむぞ」 一同は十字星の前にひざまずいて、勇士の好運をいのった。 翌朝七時、富士男、ドノバン、イルコック、サービスの四人は、ゴルドンのすすめによって、猟犬フハンをしたがえて出発した。 浜にそうて 岩壁 ( がんぺき )をよじ、川をさかのぼりて森にいる。 ひいらぎバーベリ等の 極寒地方 ( ごくかんちほう )に生ずる 灌木 ( かんぼく )は、いやがうえに密生して、 荊棘 ( けいきょく ) 路 ( みち )をふさいでは、うさぎの足もいれまじく、 腐草 ( ふそう ) 山 ( やま )をなしては、しかのすねも没すべく思われた。 どうかすると少年らは、高草のためにまったくすがたを見失うことがあるので、たがいに声をかけあうことにした。 七時になるともう日はしずんで、前進することができない。 四人は森のなかに一 泊 ( ぱく )することにした。 翌日四人はふたたび前進をつづけた、四人の目的は、この地が、島か大陸かを見さだめることと、いま一つは、冬ごもりをする 洞穴 ( どうけつ )を、さがしあてることである。 四人は大きな湖水のへんを歩きつづけた、だがこの日もまた、一頭の 猛獣 ( もうじゅう )にもあわず、一点の人の足あとも発見しなかった。 ただ二、三度、なんとも知れぬ大きな鳥が、森のなかを歩いているのを見た。 「あれはだちょうだ」 とサービスはいった。 「もしだちょうとすればもっとも小さいだちょうだ」 とドノバンは笑った。 「しかしだちょうだとすると、ここはアメリカかもしれんよ、アメリカはだちょうが多い」 四人はこの夜、小さな川のほとりに 野営 ( やえい )した。 第三日の朝四人は、川の右岸にそうて、流れをおうてゆくと右に一帯の 岩壁 ( がんぺき )を見た。 「やあ、サクラ 湾 ( わん )の 岩壁 ( がんぺき )のつづきじゃないか」 とサービスがいった。 サクラ 湾 ( わん )とは、少年連盟のサクラ号が 漂着 ( ひょうちゃく )した湾に少年たちが名づけた 名称 ( めいしょう )である。 「あれはなんだろう」 イルコックがとつぜん右のほうを指さしてさけんだ。 そこには大きな石が、 石垣 ( いしがき )のごとく積まれて、しかもそのなかばはくずれていた。 「この石垣は、人手でもって積んだものにちがいない、して見ると、ここに人が住んでいたと思わなきゃならん」 「それはそうだ、たしかに舟をつないだところだ」 反対ずきのドノバンも賛成した。 そうして草のあいだにちらばっている、木ぎれを指さした。 一つの木ぎれは、たぶん、舟のキールであったものだろう、そのはしに、一つの鉄のくさりがついていた。 「だれかがここへきたことがある」 四人は思わず顔を見あわした、このぼうぼうたる無人の 境 ( さかい )に、住まったものははたしてだれか。 四人はいまにも、ぼうぼうたる 乱髪 ( らんぱつ )のやせさらばえた男が、草のあいだから顔を出すような気がして、あたりを見まわした。 ひとりとしてものもいうものはない、四人はだまって 想像 ( そうぞう )にふけった。 木ぎれは 蘚苔 ( せんたい )にくさって、 鉄環 ( てつわ )は赤くさびている、風雨 幾星霜 ( いくせいそう )、この舟に乗った人は、いまいずこにあるか、かれはどんな生活をして、どんなおわりをとげたか。 草をわけ枝をむすんで、長いあいだここにくらしていたが、救いの舟もきたらず、ついにこのさびしい石垣のなかにたおれて、骨を雨ざらしにしたのか。 それは人の身の上、いまや自分たちもまた、それと同じき運命にとらえられているのだ。 ちょうぜんとして 感慨 ( かんがい )にふけっていると、とつぜん猟犬フハンは二つの耳をきっと立てて尾をまたにはさみながら、地面の上をかぎまわった。 かれは右にゆき、左にゆき、またなにかためらうように見えたが、たちまち一方の木立ちをさしてまっすぐに走った。 「なんだろう」 一同はフハンのあとについていった、フハンは、ちくちくとおいしげる木立のなかに 突進 ( とっしん )したが、なにを思うたか、一本のぶなの木の下に立ちどまって、高く声をあげた。 一同はぶなの木を見ると、その 幹 ( みき )の皮をはぎとったところに、なにやら文字がきざみつけてあった。 1807 一同がそれを読んでるうちに、フハンはふたたび 疾風 ( しっぷう )のごとく 岩壁 ( がんぺき )をかけのぼって、とうとうすがたが見えなくなった。 とやがて、ただならぬフハンのほゆる声がおこった。 「ゆこう、なにかあるんだろう」 富士男がまっさきに走った。 「気をつけろよ、 短銃 ( たんじゅう )をポケットから出しておくれ」 一同は 岩壁 ( がんぺき )をまわってゆくと、ドノバンはそこで一個のすきを拾った。 「やあ、ふしぎだなあ」 あたりを見まわすと、そのへんに 耕作 ( こうさく )のあとがある、いもは野生に変じて、一面に地の上をはうている。 「 野菜 ( やさい )をつくって生きていたのだ」 こう思うまもなく、フハンはまたしても二つ三つさけび声をあげた。 一同はフハンのあとについてゆくと、 荊棘 ( けいきょく ) 路 ( みち )をふさぎ、野草が一面においしげて、なにものも見ることができない。 富士男は草をはらいはらいして、なかをのぞいてみると、そこにうす暗い 洞穴 ( ほらあな )の入り口を見た。 「待てよ」 富士男は勇み立つ三人をとめて、かれ草をあつめてそれに火をともし、洞穴へさしいれた、そうして空気に 異状 ( いじょう )がないのを見て、一同は洞穴のなかへはいった。 洞穴の口は高さ五尺、はば二尺にすぎないが、はいってみると、かつぜんと内部は広くなり、二十尺四方の 広間 ( ひろま )となり、地上にはかわいた砂をしきつめてあった。 室の右方に一きゃくのテーブルがあり、テーブルの上に土製の水さしや、大きな貝がらがあった、貝がらはさらに用いられたものらしい、赤くさびたナイフ、つり針、すずのコップもある。 壁ぎわの木箱には、衣服の 布 ( ぬの )がぼろぼろになってすこしばかりのこり、奥のほうの寝台にはわらがしいてあり、木製のろうそく立てもある。 富士男は寝台の上の 古毛布 ( ふるもうふ )をつえの先でおこしてみたが、そこにはなにもなかった。 四人は洞穴を 検査 ( けんさ )して外へ出ると、フハンはまたもや狂気のごとく走った、それについて川をくだると、大きなぶなの木の下に、一 堆 ( たい )の白骨があった。 これこそ洞穴の主人の 遺骸 ( いがい )であろう。 四人はだまって白骨をみつめた。 ああ白骨! これはなんぴとの 果 ( は )てであるか? 破船の水夫が、この地に 漂着 ( ひょうちゃく )して救いを待つうちに、病死したのであろうか、かれが 洞中 ( どうちゅう )にたくわえた器具は、木船から持ってきたのであろうか、ただしは、自分がつくったのであろうか、それはともかくとして、もしこの地が大陸につづいているなら、かれはここに長くとどまらずに、もっともっと内地のほうへ進んでゆきそうなものだ、それもせずにここで死んだのは、この地がはなれ島であるしょうこでなかろうか。 この人さえも救いをえずに、ここで死んだとすれば、ぼくらもとうてい救われる道はあるまい。 四人はふたたび洞穴へかえって、いま一度、内部をくわしく検査することにした。 洞穴の四方の壁は 花崗岩 ( かこうがん )で、すこしの 湿気 ( しっけ )もなく、また海からの潮風もふせぐことができる、内部は 畳数 ( たたみかず )二十三枚だけの広さだから、十五人の 連盟 ( れんめい )少年を、いれることができる。 一同はそれから、すみずみからいろいろな器具を発見した、そのうちにドノバンが 夜具 ( やぐ )をうちかえすと、一さつの手帳があらわれた。 「やあ、これはなんだろう」 サービスは顔をよせて、手帳をのぞいた。 「なんだかわからない字だ」 「エジプトの字だよ」 「 支那 ( しな )の字だ」 三人がののしりさわぐのをきいて、富士男もそばによった。 「なんだろう、これは」 「どれどれ」 富士男は手帳をちらと見た。 「やあ日本の文字だ」 一同はおどろいて富士男の顔を見やった。 「ぼくの国の文字だ、ぼくはニュージーランドで生まれたけれども、父と母に日本の字を習ったからよく読める、だがこれは紙が古くなり字が消えてるから、読みようがない、しかし……」 かれはしずかにページをくって、おわりのほうを読んだ、それはとくに大きく書いてあったので、やっと読むことができた。 「 山田左門 ( やまださもん )」 「山田?」 「山田!」 声々がいった。 「さっきのぶなの木にきざんだS・Yは、やっぱりそれだった」 と富士男は説明した。 「そうか日本人か」 人々はますますおどろいた。 万里 ( ばんり )の 異域 ( いいき )に 同胞 ( どうほう )の白骨を見ようとは、富士男にとってあまりに 奇異 ( きい )であり 感慨 ( かんがい )深きことがらであった。 と、ドノバンは手帳のあいだから一枚の紙をみつけた。 「地図だ」 「おう」 破 ( やぶ )らぬようにしずかにひらくと、疑いもなく地図である、それは山田がとくに 念入 ( ねんい )りに書いたものらしい。 四人はひと目それを見るやいなや、一度に声をあげた。 「やっぱり島だ」 「うん、島だ」 「四方が海だ」 「島だからゆきどころがなくなって死んだのだ」 「ぼくらもだめかなあ」 ぼうぜんと立ちつくす三人をはげまして、富士男は洞穴を出て、もとのぶなの木の下にきて地をほり、ていねいに白骨を 埋葬 ( まいそう )した。 「ねえきみ」 と富士男は 感激 ( かんげき )の眼に涙をたたえて、三人にいった。 「日本は世界じゅうでもっとも小さな国だが、日本人の 度量 ( どりょう )は、太平洋よりも広いんだ、昔から日本人は海外発展に 志 ( こころざ )して、 落々 ( らくらく )たる 雄図 ( ゆうと )をいだいたものは、すこぶる多かったのだ、この山田という人は 通商 ( つうしょう )のためか、学術研究のためか、あるいは宗教のためか、どっちか知らないが、 図南 ( となん )の 鵬翼 ( ほうよく )を太平洋の風に張った勇士にちがいない、それが海難にあって、無人境の白骨となったとすれば、あまりに 悲惨 ( ひさん )な話じゃないか、だがけっして 犬死 ( いぬじ )にでなかった、山田は数十年ののちに、その書きのこした手帳が、なんぴとかの手にはいるとは、 予期 ( よき )しなかったろうと思う、 絶海 ( ぜっかい )の 孤島 ( ことう )だ、だれがちょうぜんとして 夕陽 ( ゆうひ )の下に、その白骨をとむらうと 想像 ( そうぞう )しえよう、それでもかれは、地図をかいた、その地図は、いまぼくらの 唯一 ( ゆいつ )の案内者となり、その洞穴は、いまぼくらの唯一の住宅となった。 ぼくははじめて知った、人間はかならずのちの人のために足跡をのこす、いやのこさなければならんものだ、それが人間の義務だ、だからぼくらものちの人のために、りっぱな仕事をして、りっぱな行ないをつまなければならん、人間はけっして、ひとりでは生きてゆけない、死んだ人でも、のちの人を 益 ( えき )するんだからね、ぼくはいまそれがわかった、きみらはどう思うかね」 「むろん 賛成 ( さんせい )だ」 とサービスがいった。 「みなでこの 恩人 ( おんじん )に 感謝 ( かんしゃ )しようじゃないか」 四人は一 抔 ( ぼう )の土にむかって 合掌 ( がっしょう )した。 協力 殉難 ( じゅんなん )の先人山田左門の白骨をぶなの木の下にほうむった四人は、山田ののこした地図をたよりに 洞外 ( どうがい )に流るる河にそうて北西をさしてまっすぐにくだった。 ゆくときの 困難 ( こんなん )にひきかえて、帰りは一歩も 迷 ( まよ )うところなく、わずか六時間でサクラ 湾 ( わん )の波の音をきくことができた。 もう日はまったく暮れたが、船中でるすをしていたゴルドンは、たえず船の上からのろしをあげていたので、四人はそれを目あてにぶじサクラ号に帰ることができた。 その翌日、一同は 甲板 ( かんぱん )に集まって、 遠征隊 ( えんせいたい )四人の報告をきき、いよいよ冬ごもりの準備にとりかかることにきめた。 山田の地図によると、この島は東西十里(四十キロメートル)南北二十里(八十キロメートル)であるが、山田がこの島で一生をおわったところをもってみると、 訪 ( と )う人もなき 絶海 ( ぜっかい )の 孤島 ( ことう )にちがいない。 しかも秋はすでに去らんとして冬は眼前にせまっている、 烈風 ( れっぷう )ひとたびおそいきたらばサクラ号はまたたくまに波にのまれてしまうだろう。 「だからいまのうちに山田の 洞 ( ほら )にひっこさなければならん」 とゴルドンはいった。 「ひっこすといっても、船の 諸道具 ( しょどうぐ )や食料などを運ぶには、少なくとも 一月 ( ひとつき )はかかるだろう。 そのあいだ、みなはどこに宿るか」 とドノバンはいった。 「河のほとりにテントを張ることにしよう」 「それにしても、この船をといて 洞 ( ほら )まで持ってゆくのは、なかなかよういなことではないよ」 なにかにつけて他人の意見に反対したがるドノバンはいった。 「きみのように反対ばかりしては、仕事がはかどらないよ。 人の意見に反対するなら、まずきみの意見をいってくれたまえ」 と富士男はいった。 「ぼくは洞穴にひっこんで冬ごしをするよりも、このまま船のなかにいるほうがいいと思う。 船におればここを通る船に救われまいものでもない」 「それにはぼくは 賛成 ( さんせい )ができない。 このばあい、ほかから助けを待つべきでない。 ぼくら自身の力で、ぼくらの生命をまもる決心をしなければならん」 「それでは永久に洞穴のなかにいて 餓死 ( がし )するつもりか」 「餓死するつもりではない、ただぼくらはいかなるばあいにも、他人の助けをあてにせず、自分で働きたいと思うだけだ」 ドノバンと富士男はまたしても 衝突 ( しょうとつ )した。 「ドノバン君、ぼくらのサクラ号はもう半分以上こわれかけてるんだ、船にとどまるといってもとどまれないのだ。 だからぼくらは洞穴のなかで冬をこして、その間にここへ 旗 ( はた )を立てておけば、 通航 ( つうこう )の船が見つけて助けてくれるかもしれんじゃないか」 ゴルドンは両者のあいだにはいってなだめるようにいった。 ドノバンはしいて反対をしてみたものの、心のなかではそれよりほかに 策 ( さく )がないことを知っていたので、 沈黙 ( ちんもく )してしまった。 衆議 ( しゅうぎ )一決のうえはいよいよ 貨物運搬 ( かもつうんぱん )にとりかからざるをえない。 富士男の 推薦 ( すいせん )でいっさいの工事は仏国少年バクスターに一任し、一同はその 指揮 ( しき )にしたがうことにした。 バクスターはへいそあまりものをいわないが、 勤勉 ( きんべん )にして 思慮 ( しりょ )深く、生まれながらにして、 建築 ( けんちく )の才能があった。 富士男がかれを 推薦 ( すいせん )して工事の部長としたのはむりでない。 ものの 順序 ( じゅんじょ )としてバクスターはまず川の右岸にテント小屋を建てることにした。 川のほとりに 繁茂 ( はんも )するぶなの木の枝と枝のあいだに、長い木材をわたして屋根の骨をつくり、それにテントを張り、そこに 火器 ( かき ) 弾薬 ( だんやく )その他いっさいの食料を運んだ。 そのつぎにはいよいよ船体の 外皮 ( がいひ )をとかねばならぬ。 船の外皮は 銅板 ( どうばん )で、これは後日なにかの役にたつからていねいにはぎとった。 しかしそのつぎには 鉄骨 ( てっこつ )があり、船板があり、柱がある。 それらをとくのはなかなかよういなことでない。 しかしさいわいなるかな、四月二十五日の夜、とつぜん大風吹きつのって、天地もためにくつがえるかと思われたが、夜が明けてから浜辺へいってみると、サクラ号はめちゃめちゃに 破壊 ( はかい )されて、大小 数限 ( かずかぎ )りもない木片は、落花のごとく砂上にちっていた。 一同はなんの労するところなくして、船をといたようなものだ。 その日から一同は毎日毎日木片を拾いあつめては、エッサモッサ肩にになって 天幕 ( テント )に運んだ。 読者よ、いかに勇気あるものといえども、かれらの年長は十六が 頭 ( かしら )で、年少は十歳である。 かれらの 困苦 ( こんく )はどんなであったかを 想像 ( そうぞう )してくれたまえ。 かれらはいずれも 凛々 ( りんりん )たる勇気をもって、年長者は幼年者をいたわり、幼年者は年長者の命令に服し、たがいに心をあわせて日の暮るるも知らずに働いた。 ある者は長い木材をてこにして重いものをおこすと、ある者は丸い木材をコロにして重いものをころがしてゆく、肩にかつぐもの、背にになうもの、走るもの、ころぶもの、うたうもの、笑うもの、そのなかにはだれひとり不平をいうものはない。 だれよりもまっさきに働くのは富士男とゴルドンで、ふたりはいちばんむつかしい仕事を喜んでひきうけた、ふたりはサクラ号のキールをきって二つになしたるものや、 前檣 ( ぜんしょう ) 後檣 ( こうしょう )の残部などのもっとも重いものを、エイエイかけ声をして運んだ。 それに負けじとドノバンもグロースも 帆桁 ( ほげた )を運んだ。 バクスターはそれらのなかから、長い木材をえらんで川のなかにいれ、それをたてになし、短い木材を横に組んでたて十メートル、はば四メートルのいかだの骨をつくり、その上にサクラ号の 甲板 ( かんぱん )や、他の板ぎれをくぎづけにして、りっぱないかだを完成した。 この工事がおわったのは五月二日である。 翌三日からいよいよテントの 貨物 ( かもつ )をいかだにつみはじめた。 善金 ( ゼンキン )、 伊孫 ( イーソン )、ドール、コスター、次郎の幼年組は軽いものを運び、重いものは年長組にまかせた。 協力一致 ( きょうりょくいっち )! 世界少年 連盟 ( れんめい )は、ほんのわずかの日数のあいだに、おとなの二倍以上の仕事を完成した。 五月五日一同はいかだの上に集まった、ゴルドンは 悵然 ( ちょうぜん )として、もはや 残骸 ( ざんがい )のみのサクラ号をかえりみていった。 「船はなくなった、ぼくらはぼくらの運命を大自然に一任するよりほかはない、しかしぼくらはできるだけの手段をとらねばならぬ、それには万一ここを通航する船に、ぼくらの存在を知らしむるために、 岩壁 ( がんぺき )の上に一本の信号旗を立てておきたいと思うがどうだろう」 「 賛成 ( さんせい )賛成」 一同はただちに 旗 ( はた )を立てた、それらのことがおわってから一同は、ふたたびいかだに集まった、潮はまだ早い、 満潮 ( まんちょう )は八時半である、それまで待たねばならなかった。 「きょうは何日だ」 と富士男はいった。 「五月五日」 とだれやらが答えた。 「そうだ、五月五日、南半球の五月は北半球の十一月にあたる、それだけの差はあるが、しかし五月五日は非常にさいさきのよい日なのだ」 「どういうわけか」 とゴルドンはにこにこしていった。 「ぼくの 故郷 ( こきょう )のじまんと 誤解 ( ごかい )してくれたもうな、五月五日は日本においては少年の最大祝日なのだ。 それはちょうど、欧米におけるクリスマスににたものだ、日本全国 津々浦々 ( つつうらうら )にいたるまで、いやしくも男の子のある家では、屋根よりも高く 鯉幟 ( こいのぼり )を立てる、室内には男性的な人形をかざる。 鐘馗 ( しょうき )という 悪魔降伏 ( あくまごうふく )の神力ある英雄の像をまつる、桃太郎という 冒険者 ( ぼうけんしゃ )の像と、金太郎という動物と 同棲 ( どうせい )していた自然児の 裸像 ( らぞう )もまつる、この 祀 ( まつ )りを五月の 節句 ( せっく )と称するんだ、五月節句は男子の祝日なのだ、だからぼくは五月節句をもって、世界少年 連盟 ( れんめい )が共同の力でもっていかだをつくり、 相和 ( あいわ )し 相親 ( あいした )しんで人生のかどでにつくことを、じつに 愉快 ( ゆかい )に思うのだ、諸君もどうかこの意義ある五月五日を忘れずにいてくれたまえ」 「 賛成 ( さんせい )賛成」 一同はかっさいした。 「だが君、その 鐘馗 ( しょうき )や桃太郎の話をもっとくわしく話してくれたまえ」 とゴルドンがいった。 「よしッ、話そう、だが潮がそろそろやってきたようだ、まず、とも 綱 ( づな )をとこうじゃないか」 「よしきたッ」 バクスターはしずかにとも綱をといた。 いかだは潮におされて動きはじめた。 いかだのしりにひかれて、サクラ号の小さなボートは 気軽 ( きがる )そうに頭をふりふりついてきた。 「バンザアイ!」 一同は声をあげてさけんだ。 「ぼくらのつくったいかだだ」 とドノバンがいった。 「そうだ、ぼくら少年はいかだをつくった、さらに少年の 連盟団 ( れんめいだん )をつくるんだ」とゴルドンがいった。 「少年連盟バンザアイ」 いかだは川の右岸にそうてなめらかにすすんだ。 だが潮にまかせて 遡行 ( そこう )するいかだのことであるから、速力はいたってにぶかった。 その日は 中途 ( ちゅうと )で一 泊 ( ぱく )し、一同は富士男の桃太郎物語などをきいて 愉快 ( ゆかい )にねむりについた。 翌日いかだが進行するにつれて、寒気がだんだんはげしくなった。 もとより急ぐ旅でもなし、むりなことをして一同をつからすのは本意でないから、この日もまた一 泊 ( ぱく )した。 その翌日の午後になると、はるかに笑うがごとき、 湖 ( みずうみ )の 青黛 ( せいたい )をみることができた。 午後三時! 日本人山田の 洞 ( ほら )ちかき川の右岸である。 善金 ( ゼンキン )、 伊孫 ( イーソン )、ドール、コスターの幼年組は早くも岸にのぼって、とんだりはねたりうたったりした、いかだの上からその光景をながめていた富士男は、弟の次郎にいった。 「おまえも行って、みんなといっしょに遊ばないか」 「ぼくはいやだ」 と次郎はいった。 「なぜだ、おまえはとうから、なんとなくふさぎこんでるが、病気なのか」 「いやなんでもない」 富士男はふしんそうに頭をかしげたが、いまここでかれこれいうべきでないと思いかえして、一同とともにいかだを出た。 もういかだの荷物は運ばれた。 山田の 洞 ( ほら )は前日とすこしもかわらなかった、一同はまず 寝具 ( しんぐ )を運んで洞のなかにあんばいし、サクラ号食堂の大テーブルを洞の中央にすえこんだ。 このまに仏国少年ガーネットは幼年組をさしずして、なべかま食器類を 洞内 ( どうない )に運ばした。 一方には黒人モコウが早くも洞の外がわの 岩壁 ( がんぺき )の下に石をつんでかまどをつくり、スープのなべをかけ、小鳥のくしをやいたりした。 小鳥はとちゅうでドノバンらが岸にのぼって 猟獲 ( りょうかく )したもので、 伊孫 ( イーソン )とドールは小鳥やきの用をおおせつかったが、やけしだいにちょいちょい失敬するので、なかなかはかどらない。 七時には一同洞内の大テーブルをかこんだ。 テーブルの上には 湯気 ( ゆげ )が立つスープ、コーンビーフ、小鳥やき、チーズ、ゼリー、水をわったぶどう酒などがある。 一同は腹がはちきれるまで食べたり飲んだりした。 なかには動けなくなってコクリコクリ居ねむりをはじめたものもあった。 「だが諸君」とゴルドンはいった。 「ぼくらは今後この洞穴のなかで 生命 ( いのち )をつながなければならん、それはひっきょう山田先生のおかげである、ぼくらは礼として、まず山田先生の 墓 ( はか )に、おじぎをするのが 至当 ( しとう )じゃなかろうか」 「それはそうだ」 ドノバンも富士男も 賛成 ( さんせい )した。 一同はうちつれて山田左門の墓にもうで、ゴルドンの 慷慨淋漓 ( こうがいりんり )たる 弔詞 ( ちょうし )のもとに 礼拝 ( らいはい )をおわった。 九時になった、ドノバンとイルコックが見張り番をすることになって、一同は前後も知らずにねむった。 翌日から一同はいかだの 貨物運搬 ( かもつうんぱん )をつづけた。 それからいかだをといて、その木材を 岩壁 ( がんぺき )の下につみあげた。 工学博士バクスターは、 洞 ( ほら )の壁がさまでかたくないのを見て、そこをうちぬいてかまどの上に 煙突 ( えんとつ )をつけたので、モコウは非常に喜んだ。 ドノバン(米)サービス(仏)ウエップ(独)グロース(米)の四人は毎日銃をかたにして、森や沼をさがしまわっては、必ず多少の小鳥をうって帰った。 ある日かれらは、 湖畔 ( こはん )にそうて一キロメートルばかり北の森のなかにはいってゆくと、そこに人の手をもってほったとおぼしき深い穴がいくつもあるのを見た。 穴の上にはちょうどおとし穴のように、表面だけ木の枝や草などを 縦横 ( じゅうおう )にかけわたしてある、そのなかの一つの底には、動物の骨のようなものがちらばってある。 「なんだろう」 とサービスがいった。 「たぶん山田先生がけものをとるためにほったおとし穴だろう」 「そうかね」 サービスは腕をくんでしばらく考えてからいった。 「それじゃ、この穴をかくしておこうじゃないか、ひょっとしたらなにか大きなけものがひっかかるかもしれないよ」 「そんなことがあるもんか、ぼくらがこうして毎日鉄砲をうつから、けものは遠くへ逃げてしまったよ」 「だが、どうかしてくるかもしらない」 サービスは三人の笑いをよそにして、一生けんめいに木の枝を運んで穴をかくした。 天気は日ましに寒いが、湖や川が 結氷 ( けっぴょう )するほどではなかった。 幼年組は毎日水辺へいって魚をつった。 そのためにモコウの台所には魚のない日はなかった。 だがここにこまったのは物置きのないことであった。 どこか 岩壁 ( がんぺき )のあいだに 適当 ( てきとう )な物置き 庫 ( ぐら )がなかろうかと富士男は四、五人とともに、北方の森のなかをさがしまわった、するととつぜん 異様 ( いよう )のさけびがいんいんたる木の間にきこえた。 「なんだろう」 一同はすぐ 銃口 ( じゅうこう )をむけて身がまえた、そのなかに富士男とドノバンはまっすぐに声のほうをさして進んだ。 と見ると、そこはかつてサービスが木の枝をむすんでかくしておいた、穴のほとりであった。 声はまさしく穴の底である。 縦横 ( じゅうおう )にわたした枝はくずれおちて、なんとも知らぬ動物が、おそろしい音を立ててくるいまわっている。 「なんだろう」 ドノバンがいうまもなく、富士男は声高くよんだ。 「フハン、フハン、ここへこい」 主人の声をきいたフハンは、矢のごとく走ってきた、かれは主人の顔をちょっとながめて、すぐ穴のはしから底を見おろした、とたんに 電光 ( でんこう )のごとく穴のなかへおどりこんだ。 「みんなこいよ」 と富士男はうしろの少年たちにいった、少年たちは先をあらそうて走ってきた。 「なんだろう」 「ひょうか」 とウエップがいった。 「クーガル(ひょうの一種)かもしれない」 とグロースがいった。 「いや二足動物、だちょうだ」 とドノバンがいった。 じっさいそれは、アメリカだちょうと、 称 ( しょう )せらるるものであった。 全身は灰色で、その肉は 佳味 ( かみ )をもって 賞 ( しょう )せらる。 「生けどりにしなくちゃ」 とサービスがいった。 「うん、きみが一生けんめいに穴をかくしたかいがあったね」 とドノバンが笑った。 「だが生けどりはむつかしいよ、あの大きなくちばしでつっつかれたらたまらない」 「なあにだいじょうぶだ」 サービスは身をおどらして、穴のなかへとびこんだ、穴のなかでは 猟犬 ( りょうけん )フハンと、だちょうが 必死 ( ひっし )になって戦っていた。 だちょうは穴がせまいために、つばさを開いて飛ぶことができなかったが、いま最後の力をこめて、フハンの眼玉をつこうとした。 そのせつなにサービスはだちょうのながいくびにぶらりとさがった。 だちょうは 驚 ( おどろ )いてサービスの頭を、その 怪奇 ( かいき )なくちばしで二つ三つつついた。 「なにをちくしょう!」 つかれたサービスはものともせずに、だちょうののどをしめつけしめつけした。 「なにか 縄 ( なわ )をくれ」 「よしきた」 一同は縄やバンドをつなぎあわせて、穴のなかへおろした。 「ひいてくれ」 一同が 縄 ( なわ )をひくと! 見よ! たくたくたる 丈余 ( じょうよ )の灰色の 巨鳥 ( きょちょう )! 足はかたくしばられ、 恐怖 ( きょうふ )と 疲労 ( ひろう )のために 気息 ( きそく )えんえんとしている。 「やあ大きなものだなあ」 一同があきれて見まもっていると、サービスとフハンが穴から出てきた。 「うまいぞうまいぞ、当分ごちそうができるぞ」 とモコウはおどりあがって喜んだ。 「じょうだんじゃない、これを食われてたまるもんか」 とサービスはいった。 「食わずにどうするつもりだ」 「 後生 ( ごしょう )だから命だけは助けてくれよ、いまにこれをかいならして乗馬にするんだから」 「だがわれわれの食料の 倹約 ( けんやく )しなければならないのに、この鳥をかう食料はどうするつもりか」 とゴルドンがいった。 「それは心配するなよ、鳥は木の葉や草を食って生きるものだ、われわれの食料とは 無関係 ( むかんけい )だ」 「なるほど」 だちょうはサービスに一任することにきめた。 この日はとうとう物置きに 適当 ( てきとう )な 洞 ( ほら )を発見することができなかった。 そこでバクスターの 考案 ( こうあん )で、 洞 ( ほら )の内部の壁のやわらかいところをほって、室をひろげることにした。 壁のやわらかいところには、木材の 支柱 ( しちゅう )をほどこして 崩壊 ( ほうかい )をふせぎ、年長者はつるはしをふるい、年少者は岩くずや石きれを運んでは、洞の外にすてた。 三十日の午後には、五、六尺のトンネルができた、と、とつぜんふしぎな事件が 出来 ( しゅつたい )した。 富士男はトンネルの奥で、しきりに 壁 ( かべ )をほっていると、どこやらに 奇妙 ( きみょう )なうなり声をきいた。 「なんだろう!」 ゴルドンもバクスターも、同時にその声をきいた、三人はすぐドノバン、イルコック、ウエップ、ガーネットの 年長連 ( ねんちょうれん )をよんで相談した。 「なんでもないよ、 洞 ( ほら )のなかだからなにかの 反響 ( はんきょう )にちがいない」 とドノバンはいった。 一同はふたたびつるはしをふるってほりつづけた。 と夕方になると、さっきよりもっと近くに、なにものかほゆる声がきこえた。 「いよいよ変だぞ」 声がおわらぬうちに、フハンはあわただしく洞のなかをかぎまわったが、とつぜん 疾風 ( しっぷう )のごとく 洞 ( ほら )の外へ走り去った。 一日の 労役 ( ろうえき )をおわって一同は 晩餐 ( ばんさん )のテーブルについたが、フハンは帰ってこない。 「フハン、フハン」 みんながよんでも、やっぱりフハンのすがたは見えない。 ドノバンは 湖辺 ( こへん )へゆき、イルコックは川の岸にのぼり、一同は手をわけてフハンをさがした。 九時はすぎた、森は暗い、一同はたがいに 黙然 ( もくねん )として 洞 ( ほら )へ帰った。 「どこへいったろう」 「猛獣にでも殺されたのかもしらん」 人々が語っていると、とつぜんフハンのほえる声がした。 「ああトンネルのなかだ」 富士男はまっさきにトンネルにとびこんだ、年長者は手に手に武器をとって立ちあがった、年少者はいずれも 毛布 ( もうふ )を頭からかぶって、うつぶせになった、すると富士男はふたたびトンネルから出てきた。 「この 壁 ( かべ )のうしろに、もう一つの 洞 ( ほら )があるにちがいない」 「そうかもしれないよ、そこにいろいろな動物がすんでいるんだと思う」 このときまたもや、おそろしい 咆哮 ( ほうこう )の声がきこえた。 「ああ、フハンが 猛獣 ( もうじゅう )と戦ってるんじゃなかろうか」 「だが洞の入り口がわからないから、助けにゆけないね」 とイルコックがいった。 富士男はもう一度 壁 ( かべ )に耳をつけたが、その後せきばくとしてなんの音もない。 不安な一夜をすごして、翌朝ドノバンらは 湖 ( みずうみ )のほとりに、フハンをさがしにいった。 富士男とバクスターは例のごとくトンネルをほりつづけた。 午後の二時ごろ! 富士男はつるはしをとめてとつぜんさけんだ。 「どうもへんだぜ」 「なにが?」 とバクスターはいった。 「このトンネルがほかの 洞穴 ( ほらあな )へつきぬけそうな気がする、なにがとびだすかもしれないから、みんな注意してくれたまえ」 ドノバン、イルコック、ウエップらは、手に手に武器をとって身がまえた。 年少者はことごとく 洞 ( ほら )の外へ 避難 ( ひなん )せしめた。 「やあ、これだ」 富士男のうちだすつるはしとともに、ぞろぞろと大きな岩がくずれて、そこに 洞然 ( どうぜん )たる一道の穴があらわれた。 「やあ」 声とともにがらがらと地ひびきをさせて 驀然 ( ばくぜん )おどりだしたる一個の怪物が、富士男の顔をめがけてとびついた。 それはフハンであった。 「やあ、フハン!」 一同のおどろきは喜びの声とかわった。 フハンは主人のほおをひとなめしてから、身を転じてバケツの水をしたたかに飲み、それから主人をさそうもののごとく、顔を見あげた。 「だいじょうぶか」 と富士男は笑いながらフハンにいった。 フハンはもう一度主人のひざに、頭をすりつけた。 「だいじょうぶらしいよ、諸君、ちょうちんを持ってくれたまえ」 ゴルドン、ドノバン、イルコック、バクスター、モコウらは、ちょうちんをともしてトンネルに進んだ。 そうしてくずれた穴をくぐって、つぎの 洞 ( ほら )へはいると、そこは山田の洞と同じ高さで、二十 畳敷 ( じょうじ )きばかりの広さである。 だがこの洞の入り口はどこにあるだろう、イルコックは壁のすみずみをみまわしたとたんに、なにものかにつまずいて、たおれそうになった。 「なんだ」 ちょうちんに照らしてみると、まぎれもなきジャッカル(やまいぬの 属 ( ぞく ))の 屍体 ( したい )であった。 「ああジャッカルだ」 「フハンがかみ殺したんだ」 「すてきすてき、こんどこそごちそうだ」 とモコウはいった。 そうしてサービスにむかい、 「それともきみは、このジャッカルを乗馬にしますかね」 「いくらなんでも死んだものには乗れないよ」 とサービスはまじめな顔でいった。 一同は笑った。 だがえものはこれだけでなかった、富士男はこの壁のすみに、 洞 ( ほら )の入り口があることを発見した、この入り口から外へ出ると、ちょうど湖のほとりになっていた。 翌日からバクスターの 設計 ( せっけい )で、この新しい洞と、古い洞との 連絡 ( れんらく )をひろげ、入り口にはサクラ号からとってきたとびらをとりつけた。 バクスターはさらに思いをこらして、 旧洞 ( きゅうどう )はもっぱら台所、食堂および物置きにあて、 新洞 ( しんどう )は寝室および読書室となした。 毎日毎日寒い風が吹きつづいていたので、 洞外 ( どうがい )の工事ができなくなった、だが二週間ののちにはいっさいの 設備 ( せつび )が完了した。 だが一同が救いの船を得るのはいつのときか、あらかじめはかりがたい。 それまでむなしく遊び暮らすはもったいない話だと、ゴルドンがいいだした。 そこで一定の時間をきめて、 課程 ( かてい )を学習することとなり、年長者はそれぞれ年少者に教えるべく、 分担 ( ぶんたん )をきめた。 六月十日の夕、 晩餐後 ( ばんさんご )の雑談はことにうれしかった。 年少者のドールはとつぜんこういった。 「ぼくらが住んでるこの島にも、いろいろ名があるの?」 「無人島だから名はないかもしらん」 とゴルドンは答えた。 「でも、名がないとこまるじゃないの? ぼくらのこの家だって、なんという町かわからない」 「それはもっともだ、諸君、今夜みんなで相談して、名をつけようじゃないか」 「賛成賛成」 「モコウ! 命名式だからコーヒーをごちそうしてくれたまえ」 モコウがつくってくれたコーヒーに舌つづみをうって、一同はストーブをかこんだ。 「まず 順序 ( じゅんじょ )からいうが、ぼくらが第一番に 漂着 ( ひょうちゃく )した港は、船の名にちなんで、サクラ湾としたいと思うがどうだ」 とドノバンはいった。 「賛成賛成」 「ぼくらがこの 洞 ( ほら )を発見したのは、山田左門先生のおかげだから、 左門洞 ( さもんどう )とつけたいね」 と富士男はいった。 「賛成賛成」 「サクラ 湾 ( わん )にそそぐ川は?」 「ニュージーランド川としよう」 「湖は?」 「平和湖」 「海が見える岡は?」 「 希望 ( きぼう )が 岡 ( おか )」 「だちょうを 捕 ( と )った森は?」 「だちょうの森としてくれたまえ」 とサービスがいったのでみんなが大笑いした。 北の 岬 ( みさき )を北岬という、南の岬を南岬という、犬の 歯 ( は )のように出入しているいくたの岬は、みんな本国を記念に、日本岬、アメリカ岬、フランス岬、ドイツ岬、イタリア岬、支那岬、インド岬と名づけた。 「ですが、この島全体の名をなんとつけるんですか」 と 善金 ( ゼンキン )がいった。 「そうだ、それがいちばんたいせつな命名だ。 諸君 知恵 ( ちえ )をしぼってくれたまえ」 とゴルドンがいった。 声に 応 ( おう )じて、少年島、 親愛島 ( しんあいとう )、 理想島 ( りそうとう )等の名が出た。 「そうだ、もっといい名がありそうなものだね」 「ぼくは!」 と年少のコスターは、学校におけるがごとく手をあげていった。 「 少年連盟島 ( しょうねんれんめいとう )とつけたいのです」 「 賛成 ( さんせい ) 賛成 ( さんせい )」 声は一度におこった。 「少年連盟島! じつにいい名だ、コスター君、今夜の命名式はきみが 殊勲者 ( しゅくんしゃ )だよ」 富士男にほめられて、コスターはさっと顔をあからめながら、しかも 得意 ( とくい )そうに鼻穴をふくらました。 「そうなると」とモコウはまっくろな顔をつきだしていった。 「連盟があるからには 大統領 ( だいとうりょう )がなければなりません」 「賛成賛成」 声々がおこった。 「大統領なんて 不必要 ( ふひつよう )だ」 とドノバンはいった。 「しかし 衆議 ( しゅうぎ )がまちまちになってきまらないばあいに、それを 裁決 ( さいけつ )する人がなければ、連盟の 方針 ( ほうしん )が立たない」 と富士男はモコウの説に賛成した。 「賛成賛成」 一同はしだいに熱した。 「諸君がそうしたいなら、僕も 異存 ( いぞん )はないが、しかし 選挙 ( せんきょ )をするのかね」 「選挙だ選挙だ」 一同の眼は富士男のほうを見たので、ドノバンは早くも例の 嫉妬 ( しっと )の念が、むらむらともえだした。 「選挙ならそれもよかろう、しかし任期は六ヵ月ぐらいに限りたいね」 「六ヵ月と限るもいい、そのかわりに、 再選 ( さいせん )もさしつかえないということにして」 とバクスターがいった。 「賛成賛成」 なにかにつけて 苦情 ( くじょう )をいいたがるドノバンも、道理の前には口をつぐむよりほかはなかった。 「そこでぼくは諸君に一言したい」 と富士男は 謹厳 ( きんげん )なる 口調 ( くちょう )でいった。 「われわれ十五人の少年連盟の 首領 ( しゅりょう )として、われわれが選挙する人物は、われわれのうちでもっとも 徳望 ( とくぼう )あり、 賢明 ( けんめい )であり、公平であるところのゴルドン君でなければならん」 「いやいや」 とゴルドンは手をふって、「 才知 ( さいち )と 胆力 ( たんりょく )と正義は、富士男君を第一におすべきだ」 「いやいやそうじゃない、諸君、ゴルドン君を選挙してくれたまえ」 「いや、諸君、富士男君を選挙してくれたまえ」 ふたりはひたいに玉のごとき汗を流して、ゆずりあった。 「どっちでも早くきめてくれ」 とドノバンは不平そうにいった。 「ねえ、ゴルドン君、おたがいにゆずりあってもはてしがない、連盟の第一義は 協力一致 ( きょうりょくいっち )だ、平和だ、親愛だ、その 志 ( こころざし )について考えてくれたまえ」 富士男はその眼に 熱火 ( ねっか )のほのおをかがやかして、 哀訴 ( あいそ )するようにいった。 「うん」 「 大統領 ( だいとうりょう )という名目は、けっして階級的の意味じゃない」 「うん」 ゴルドンはちらと富士男の顔を見やったときに、ドノバンのねたみのほのおが、わが眼をいるような気がした。 彼は急に考えを変えた。 「そうだ、富士男君を大統領にすると、仲の悪いドノバンがなにをするかわからない、連盟の平和のために、自分が 甘諾 ( かんだく )するのは、さしむき取るべき道ではなかろうか」 かれがこう思っているうちに、富士男は一同にいった。 「ゴルドン君の 万歳 ( ばんざい )をとなえようじゃないか」 「ゴルドン君万歳!」 一同はさけんだ。 「少年連盟万歳」 冬ごもり 島の各所の命名はおわった。 少年連盟の盟主はゴルドンにきまった。 ある日富士男はゴルドンにこういった。 そのあいだわれわれは、なんにもせずに春を待っているのは、きわめておろかな話だと思う。 われわれは少年だからいかなるばあいにも学問をやめてはならん」 「むろんそうだ」 「そこでわれわれはこの冬ごもりのあいだに、 日課 ( にっか )を定めて勉強したいと思うがどうだろう」 「賛成賛成、ぼくもそれを考えていたところだよ、すぐに実行しよう、それにはなにか方法があるかね」 富士男は一枚の 原稿 ( げんこう )を、ゴルドンの前においた。 それには十五少年の学級と、受け持ち 教導者 ( きょうどうしゃ )などがしるされてあった。 ゴルドンはつくづくとこの原稿をひらき見て、首をかしげていたがやがてこういった。 「これにはぼくの 役割 ( やくわり )がないが、ぼくはどうなるのか」 「きみは 首領 ( しゅりょう )だから学級の 総監督 ( そうかんとく )をすればいいのだ」 「それはいかん、ぼくもみなと同じく学生だ。 首領だからといって、学問をやめることはできない。 人間は死ぬまで学生だと昔の人がいった。 ぼくも仲間にいれてくれたまえ」 「なるほど、それではきみひとりが第五級だ」 「なぜだ」 「きみは十六歳で最年長者だから」 「そうか」 けんそんなゴルドンも 年齢 ( ねんれい )を 減 ( へ )らすことができないので、第五級の生徒となることにきまった。 ゴルドンはこのことを一同に相談すると、だれしも 異議 ( いぎ )のあるべきはずがない。 一同は喜びにあふれて、その他のいろいろな 規律 ( きりつ )をきめた。 毎週二度、木曜と日曜には 討論会 ( とうろんかい )を開いて、歴史や科学および修身の題目をとらえて議論をたたかわすこと、風なき日には 湖畔 ( こはん )を散歩し、あるいはランニングの競争をやること、などもきめた。 かかる 孤島 ( ことう )にあってもっともたいせつなことは、時間の 精確 ( せいかく )である。 そこで、イルコックとバクスターは時計 係 ( がかり )となり、ウエップは 寒暖計 ( かんだんけい ) 晴雨計 ( せいうけい )の 主任 ( しゅにん )となり、一同の 身神 ( しんしん )をなぐさむるためにガーネットは音楽の主任となって、ハーモニカを鳴らすこととなった。 こういう 余興係 ( よきょうがかり )には、いたずらずきの次郎がまっさきにひきうけねばならぬはずだが、次郎はなぜかいぜんとして 沈欝 ( ちんうつ )な顔をしているので、他の人々もしいてすすめなかった。 六月の 下旬 ( げじゅん )になると寒暖計はしだいにくだって、 零点以下 ( れいてんいか )十度ないし十二度のあいだを上下するようになったが、しかし 洞内 ( どうない )にはまきの 貯蓄 ( ちょちく )が十分であったから、さまでの苦しみもなかった。 が、ここに一つの難事が 出来 ( しゅったい )した、それは雪が深くなるにつれて、年少組は川へ水をくみにゆくことができなくなったことである。 ゴルドンは 思案 ( しあん )にあまって、まず第一に工学博士に相談をした。 少年たちはたわむれにバクスターに、工学博士の 称 ( しょう )をたてまつったのである。 「よしよし考えてみよう」 バクスターは研究に研究をかさねた結果、地中に 管 ( くだ )をうずめて、川から水をひくことにした。 かれはサクラ号の浴室にそなえてあった、 鉛管 ( えんかん )を利用した。 つぎにモコウは、一生けんめいに動物やさかなの料理をするたびに、その 脂肪 ( しぼう )を貯蓄したので、燈火の油に不足の心配はなくなった。 しかしただ心配なのは食料の欠乏である、雪が吹きすさんで 猟 ( りょう )に出ることもできないので、用意の食料は日に日にへる一方である。 モコウが 倹約 ( けんやく )に倹約をかさねてたくわえたかも、しちめんちょうの肉、塩づけのさかな、サクラ号から持ってきたかんづめ類も、今後どれだけのあいだつづくか、はかることができない。 のみならず、十歳から十六歳までの少年である、 胃袋 ( いぶくろ )はおとなよりもすこやかに、食うことにかけてはことごとく 豪傑 ( ごうけつ )ぞろいだからたまらない。 なおそのうえにやっかいなのは、サービスが生けどっただちょうである。 だちょうの大食は少年にまさること 数等 ( すうとう )である、かれのために少年たちは、毎日その食料たる木の根や、 生草 ( なまくさ )を、雪深くほらねばならなかった。 これには一同へいこうしてサービスにいった。 「おい、いいかげんにして、だちょうをしめて食おうじゃないか」 「じょうだんじゃない、そればかりはかんにんしてくれ」 サービスはとうとう、だちょうの食料はいっさい他の人の手を借らずに、自分ひとりでほりあつめることにした。 かれは寒い風に吹かれて、ほおをむらさきにしながら毎日毎日雪をほり、木の根をほった。 年少組がそれを見て笑うと、かれは 傲然 ( ごうぜん )としていう。 「いまに見ろよ、このだちょうは天下の名馬になるから」 七月九日には洞外の温度は零点以下十七度にくだった。 だがこのときまきがすでにつきたので、一同は例のだちょうの森にはいって、まきをとることにきめた。 それには例の工学博士バクスターの案で、食堂の大テーブルをさかさまに倒し、それを 橇 ( そり )となしたので 運搬 ( うんぱん )はきわめて便利であった。 協同一致の冬ごもりは、かくして安らかにうちすぎた。 八月の末から九月になると、日に日に温度がのぼりゆき、平和湖の水面に春らしい風が吹けば、木々の 芽 ( め )もなんとなく活気づいて見える。 「もう少しあたたかくなったら、 遠征 ( えんせい )にでかけようじゃないか」 一同は毎日こう語りあった。 日本人山田左門先生の地図は、かなりゆきとどいたものであるが、しかしそれはおもに西方の地図で、北南東はどうなっているか、肉眼で見た山田先生の地図以外に、 望遠鏡 ( ぼうえんきょう )で新たな発見があるまいものでもない。 「もういっぺんくわしく調べよう」 九月の 中旬 ( ちゅうじゅん )からおそろしい風が吹いた。 風は一週間もつづいたが、それがやむと天地にわかになごやかになり、春の光はききとしてかがやき、 碧瑠璃 ( へきるり )の空はすみわたって、万物新たに歓喜の光に 微笑 ( びしょう )した。 長い半年の冬ごもりであった! 少年らは解放された小鳥のように勇みたって、あるいはまきをとり、あるいはさかなをつり、あるいは鳥をかりまわった。 ゴルドンは火薬を 倹約 ( けんやく )して 猟 ( りょう )はおもにおとし穴、かけなわ、 網 ( あみ )などを使用せしめたから、大きなえものはなかったが、小鳥や野うさぎの類を多くとることができた。 ところがここに、一 椿事 ( ちんじ )がしゅったいした。 ある日サービスは、例のだちょうに 餌 ( え )をやっていると、モコウがそばへよっていった。 「サービス君、この鳥はもう食べてもいいでしょう、またのところがなかなかうまそうだ」 「じょうだんじゃない」とサービスはあわてていった。 「これは天下の名馬になるんだ」 「そんなものは役にたちません、食べてしまうほうがいい」 サービスとモコウがあらそっているのを見て、ほかの少年たちはサービスをからかった。 「サービス君、きみはこのだちょうを名馬になるなるというが、いっこうに名馬にならないじゃないか」 「あわれなる友よ」とサービスは妙な声でいった。 「千里の馬ありといえども、 伯楽 ( はくらく )なきをいかにせん、千里のだちょうありといえども、きみらには 価値 ( かち )がわからない」 「文句をいわずに乗って見せたまえ」 「しからば乗って見せてやろうか、だちょうの快足とぼくの馬術を見て、びっくりしてこしを抜かすなよ」 サービスはこういって、だちょうの首をしずかになでた。 「おい、しっかり走れよ」 かれはまず、その首に 手綱 ( たづな )をつけた、それから両眼に目かくしをかけ、バクスターとガーネットにひかせて、しずしずと広場の中央にあゆみよった。 一同はかっさいした。 サービスは 得意満面 ( とくいまんめん )、やっと声をかけて、だちょうの背に乗らんとしたが、だちょうがおどろいてからだをゆすったので、つるつるとすべって、草の上にどしんと落ちた。 「やあ、どうした、天下の 大騎手 ( だいきしゅ )」 少年らはうちはやした。 「だまって見ておれ」 サービスはかくかくとのぼせあがってどなりながら、五、六回 転落 ( てんらく )ののち、やっとだちょうの背中に乗った。 「どうだい」 とかれは一同を見おろして 微笑 ( びしょう )した。 「いよう、うまいうまい」 「これから走るところを見せてやるぞ、びっくりしてこしをぬかすなよ」 「見せてくれ」 「ようし」 サービスは 手綱 ( たづな )をとって、だちょうの目かくしをはずした。 その一せつな! だちょうはかなたの森をさしてまっしぐらに走りだした。 脚 ( あし )は長し、食には 飽 ( あ )きたり、自由を得ただちょうの胸には、春風吹きわたり、ひづめの下には春の雲がわく。 「やあやあ、天下の名馬!」 少年たちはあっけにとられてかっさいした。 と同時に、サービスの声がはるかにきこえた。 「助けてくれい」 一同はわれさきにと走った。 サービスは林のなかに投げだされて、だちょうは影も形もない。 「おい、どうした」 とガーネットがいった。 「うん」 「天下の名馬はどうした」 とゴルドンがいった。 「うん」 「どうしたんだ」 「こしがぬけた」 一同は笑いながらサービスをたすけおこした。 サービスのからだには、なんの 異状 ( いじょう )もなかった。 「だから早く食えばよかった」 とモコウがいった。 いよいよ第二の 探検 ( たんけん )を 挙行 ( きょこう )することになった、第一のときには主として富士男が 指揮者 ( しきしゃ )となったが、こんどは富士男がるす役をして、ゴルドン、ドノバン、バクスター、イルコック、ウエップ、グロース、サービスの七人がゆくことにきめた。 十一月の五日、めいめいこしに 短銃 ( たんじゅう )をさげ、ゴルドン、ドノバン、イルコックの三人は、さらに鳥打ち 銃 ( じゅう )をかたにかけた。 一同は火薬を 倹約 ( けんやく )するために、山田先生の 遺物 ( いぶつ )たる飛び 弾 ( だま )を、おもに用うることにした、飛び弾というのは、一すじの 縄 ( なわ )に二つの石をしばりつけ、これを 走獣 ( そうじゅう )に投げつけて、からだや足にからみつける 猟具 ( りょうぐ )である。 時は春である、草は緑に、林のなかには名も知らぬ花が咲きみだれている。 一同は富士男らの見送りをうけてだちょうの森を左にして、 湖 ( みずうみ )にそうて北へ北へとすすみ、その日は 左門洞 ( さもんどう )をさる十二マイルの 河畔 ( かはん )で一 泊 ( ぱく )した。 一同はこの河を 一泊河 ( いっぱくがわ )と名づけた。 翌朝もぶじにすぎて、 砂丘 ( さきゅう )の下で一泊した、三日目の朝に、一同はこれより北は 砂漠 ( さばく )であることをたしかめたので、ふたたび一泊河へひきかえし、南の岸にわたった、そこでドノバンは重さ三 貫 ( がん )五六百 匁 ( もんめ )の野がんをとった。 サービスがこれを料理したが、七人では食いきれないので、残りをフハンにやった。 一同はそこから西へ西へとすすんだ。 このへんの森はだちょうの森のように 稠密 ( ちゅうみつ )ではないが、そのかわりに見るかぎり野草がはえしげって、日の光がまともに照りつけ、 毛氈 ( もうせん )のように美しいしばの上に長さ三四尺もあるゆりの花が幾百幾千となくならんで、風にそよいでいる、ゴルドンはここですこぶる有用な植物を発見した。 一本の木がある、葉が小さくて全身にとげがあり、まめほどの大きさの赤い実をもっている。 それはトラルカというもので、黒人はこの木の実から、一種の酒を 醸造 ( じょうぞう )するのである。 もう一つの木は、南米およびその 付近 ( ふきん )の島だけに生ずる、アルガロッペと 称 ( しょう )するもので、これも酒をつくることができる、一同はゴルドンの 指揮 ( しき )に 従 ( したが )って、この二種の木の実を 採集 ( さいしゅう )した。 いまもう一つの木は 茶 ( ちゃ )の木で、これもまた十分に採集した。 午後五時ごろ、一同は 岩壁 ( がんぺき )の南のほう、一マイルのところまでくると、そこに一 条 ( じょう )の細い 滝 ( たき )が、岩のあいだから落ちているのを見た。 疑いもなくこれは、海にそそぐ川の 源流 ( げんりゅう )である、日はだんだんかたむきかけたので、一同はここに一 泊 ( ぱく )することにきめた。 ゴルドンはバクスターとともに、めずらしい植え木の採集をしていると、とつぜん一方の木のあいだからふしぎな動物が、一隊をなしてぞろぞろと出てくるのを見た。 「なんだろう、あれは? やぎか」 とバクスターがいった。 「なるほど、やぎににた動物だな、とにかくつかまえようじゃないか」 「よしッ」 バクスターは例の飛び 弾 ( だま )をくるくるとまわして、風をきって群らがる動物のまっただなかへ投げた。 動物の群れはぱっとちったが、そのなかの一頭はたおれておきあがり、おきあがってはまた 倒 ( たお )れつしている。 ふたりは走りよった。 「三ついるよ」 バクスターはさけんだ。 じっさいそれは三頭であった。 一頭は母で他の二頭は 仔 ( こ )である。 「これはヴィクンヤだ」 とゴルドンがいった。 「ヴィクンヤに 乳汁 ( ちち )があるだろうか」 「あるとも」 「よし、乳汁が飲めるな、ヴィクンヤ万歳!」 ヴィクンヤは形はやぎににて足は少し長く、毛はやぎより短く頭に 角 ( つの )がない。 ゴルドンはヴィクンヤをひき、バクスターは二つの 仔 ( こ )をだいてテントへ帰ると、一同は喜び勇んで万歳をとなえた。 生 ( なま )の牛乳にうえきったかれらとしては、さもあるべきことである。 ヴィクンヤの乳汁を夢みてこころよくねむった一同の夢は、ドノバンの声に破られた。 夜明けに近い三時ごろである。 「気をつけイ」 「ど、ど、どうした」 一同はあわてて起きてドノバンにきいた。 「あの声をきけよ、ぼくらのテントをねらって、 野獣 ( やじゅう )がやってくるようだ」 「うん、ジャガー(アメリカとら)か、クウガル(ひょうの 属 ( ぞく ))だろう、どっちにしたところがたいしておそるるにおよばない、さかんにたき火をたけよ、かれらはけっしてたき火をこえて突入することはないから」 ものすごい 咆哮 ( ほうこう )は、かなたの森のやみの底からひろがってくる、 猟犬 ( りょうけん )フハンはむっくとおきて 憤怒 ( ふんぬ )のきばをならし、とびさろうとするのをゴルドンはやっとおさえつけた。 「きたぞきたぞ」 とバクスターはやみをすかして見ていった。 いかにもそのとおりである、ちょうど十間ばかり前に、血にうえた幾点点の眼の光! ただそれだけがたき火にうつって、しだいに近づくのが見える。 「だいじょうぶだ」 声とともに一発の 銃声 ( じゅうせい )が 夜陰 ( やいん )の空気をふるわした。 「手ごたえがあったぞ」 とドノバンがいった。 バクスターは燃えしきるかれ枝を手に取って動物の群れに投げこみ、その光で周囲をじっと見つめた。 「逃げたらしいぞ」 「一頭だけたおれてる」 「またやってきやしまいか」 「だいじょうぶだ」 だが一同はもうねむることをやめた。 ここは 左門洞 ( さもんどう )から九マイルのところであった。 一同は六時にそこを出発した。 家を出てから四日目である、早くるすいの友の顔を見たい、 帰心 ( きしん ) 矢 ( や )のごとく、午後の三時ごろにはもう家をさること一マイルのところへやってきた。 ヴィクンヤは一同がかわるがわる二つの仔をだいてやったので、 柔順 ( じゅうじゅん )についてきた。 このときドノバン、ウエップ、グロースの三人は、他の四人より一町ばかり前方を歩いていたが、とつぜん後隊をふりむいてさけんだ。 「気をつけイ」 ゴルドン、イルコック、バクスター、サービスはすぐに武器をとりだして身がまえた。 とたんに、かれらは前面の森から 殺奔 ( さっぽん )しくる、一個の 巨獣 ( きょじゅう )を見た。 「なんだろう」 「なんだろう」 みながひとみを定めようとするまもあらせず、サービスは風をきってヒュウとばかりに飛び 弾 ( だま )を投げた。 ねらいをあやまたず、 縄 ( なわ )は 怪獣 ( かいじゅう )の足にからみついた。 からまれながら怪獣は、死に物ぐるいの力を出して、縄のはしを持っているサービスをひきずりひきずり、森のほうへ逃げこもうとあせった。 それはじつにおそろしい力である。 サービスはさけんだ。 「みんなきてくれ」 ゴルドン、イルコック、バクスターの三人は走りよってサービスに力をそえ、縄のはしを大木の 幹 ( みき )にしばりつけた。 怪獣は眼をいからし、きばを鳴らしてくるいまわるたびに、大木はゆさりゆさりと動いて、こずえは 嵐 ( あらし )のごとく一 左 ( さ )一 右 ( ゆう )した。 怪獣はラマという動物でらくだの 属 ( ぞく )であるが、らくだほど大きくない。 これを 飼養 ( しよう )してならせばうまの代用になる。 「ラマだよ」 とドノバンは笑ってサービスにいった。 「きみの乗馬にしたらどうだ」 「乗馬はもうこりごりだ」 とサービスはいった。 一同は笑ってラマをひきたてた。 一同の遠征はけっしてむだでなかった、かれらは酒の原料や、茶の木を発見し、ヴィクンヤおよびラマを生けどり、飛び 弾 ( だま )の使用法に 熟達 ( じゅくたつ )した。 一同が帰ったとき、 洞 ( ほら )の外にひとり遊んでいたコスターはそれを見て、すぐ家の中へ走りいって富士男に知らしたので、富士男はるすいの一同をつれて洞外へむかえでた。 たがいに 相抱擁 ( あいほうよう )して万歳の声はしばらくやまなかった。 ちょうどゴルドン一行が 不在 ( ふざい )のあいだに、富士男はかねがね心にかかることがあるので、弟の次郎をひそかによんできいた。 「次郎君、きみはニュージーランドを出てからいつもふさぎこんでるが、なにか気になることがあるのかえ」 「なんでもありませんよ兄さん」 「なにか心配があるなら、ぼくにだけ話してくれないか」 「なんにもありません」 「いや、そんなことはない、みながそれで心配してるんだ、ぼくにうちあけてくれ」 「ぼくはね、兄さん」次郎はなにかいわんとしてくちびるを動かしかけたが、すぐ 両眼 ( りょうがん )にいっぱいの涙をたたえ、「ごめんなさい兄さん、ぼくが悪いんです。 ぼくが悪いんです」 「なにが悪いのだ」 次郎はわっと泣きだした、それから富士男がなにをきいても答えなかった。 一同がいろいろ苦心するにかかわらず、やっぱり食料は日一日とへっていった。 このうえは 大規模 ( だいきぼ )をもって食料 貯蓄 ( ちょちく )の方法をとらねばならぬと、富士男は決心した。 かれはゴルドンとはかって、 湖畔 ( こはん )や 沼沢 ( しょうたく )や、森のなかに、ベッカリーやヴィクンヤ等の、大きなけものをとらうるにたるほどの、大じかけなおとし穴をつくることにした。 年長組がこの大きなおとし穴をつくりつつあるあいだに、年少組はバクスターを 首領 ( しゅりょう )にして、ヴィクンヤなどを入れておく 小舎 ( こや )を建てることにむちゅうになった、小舎はサクラ号から持ってきた板をもってつくり、屋根は松やにを 塗 ( ぬ )った 油布 ( あぶらぬの )をもっておおい、小舎の周囲には森からきりだした 棒杭 ( ぼうぐい )をうちこんで 柵 ( さく )とした。 小舎のなかにはゴルドンらがとらえてきたもののほか、新たにおとし穴でとらえたラマ一頭と、バクスターがイルコックとともに飛び 弾 ( だま )で生けどった 牝牡 ( めすおす )二頭のヴィクンヤがいた。 ゴルドンは一同に飛び弾の練習をさせたが、バクスターとイルコックがもっともじょうずになった。 その他、別に 養禽場 ( ようきんじょう )一 棟 ( むね )を建てた。 そこにはしちめんちょう、野がん、ほろほろちょう、きじの類をとらえしだいにはなちがいにした。 このほうの係は 善金 ( ゼンキン )と 伊孫 ( イーソン )その他最年少組で、かれらは喜んでこれをひきうけた。 ところがひとりこまったのは、モコウである、まず 生 ( なま )の 乳汁 ( ちち )が飲めるようになり、 家禽 ( かきん )が毎日卵を生む、これほどけっこうなことはないのだが、さて一 得 ( とく )あれば一 失 ( しつ )ありで、乳汁や卵ができると急に砂糖の 需要 ( じゅよう )がはげしくなる、貯蓄の砂糖が見る見るへってゆくのを見ると、モコウはたまらなく心細くなる、さればとてみなにうまいものを食べさせて、その喜ぶ顔を見るのが、モコウの第一の楽しみなのである。 ところが、この 心配 ( しんぱい )もモコウの頭からきえるときがきた。 ゴルドンはある日、だちょうの森を散歩したとき、一むらの木のその葉、うすむらさきの色をなせるのを見ておどりあがって喜んだ。 それは砂糖の木であった。 一同はこの木の 幹 ( みき )をきって、そのきり目からふきだすところの 液 ( えき )をあつめて、それを煮つめると、なべの底に砂糖のかたまりがのこった。 その味は 甘蔗 ( かんしょ )からとったものにはおとるが、料理に使うには十分である。 砂糖がどんどんできる、酒もできる、ただたりないのは 野菜 ( やさい )だけである。 だがそのかわりに肉類は十分になった、富士男ドノバンらは三日のうちに、森のなかで、五十余頭のきつねをとったので、りっぱなきつねの毛皮は冬の 外套用 ( がいとうよう )としてたくわえられた。 それからまもなく少年連盟は 総動員 ( そうどういん )をもって海ひょう狩りの遠征を 挙行 ( きょこう )した。 海ひょう狩りの目的は、サクラ湾に 群棲 ( ぐんせい )する海ひょうをとって、その油をとることにあった。 じっさい 洞窟内 ( どうくつない )のもっともなやみとするところは、夜間の燈火が不十分なことである。 全員十五名、場所はすでにいくどもゆきなれた、サクラ湾である、 路程 ( ろてい )は遠からず、危険のおそれがないので、年少組までのこらずつれてゆくことにした。 ひさしぶりの遠征に、年少連は夜が明けるのも待ちかねて、小いぬのようにとんだり、走ったり、海ひょう狩りの壮快な気分にようていた。 夜はほのぼのと明けて、太陽の光が東の天に 金蛇 ( きんだ )を走らしたころに、一同は身軽に 旅装 ( りょそう )をととのえた。 バクスターが苦心してつくった車に、ガーネットとサービスが、かいならした二頭のラマをつけ、車の上には 硝薬 ( しょうやく )、食料、鉄の大なべ、数個のあきだるをのせ、勇みに勇んで左門洞を出た。 風あたたかに空は晴れて、洋々たる春の平野を少年連盟はしゅくしゅくとしてねってゆく。 とちゅうでドールとコスターはつかれて歩けなくなったので、富士男はゴルドンに相談して、ふたりを車の上に乗せた。 一行が沼のほとりをたどってゆくと、とつぜん一個の 巨獣 ( きょじゅう )が、がさがさと音をたてて、 灌木林 ( かんぼくばやし )のなかへ身をひそめた。 「なんだろう」 一同は立ちどまった。 「かばだ」 とゴルドンがいった。 「 昼寝 ( ひるね )をじゃましてすまなかった」 と富士男はいった。 サクラ湾についたのは十時ごろである。 河畔 ( かはん )の木陰にテントを張ってはるかに浜辺をみわたせば、水波びょうびょうとして天に接し、眼界の及ぶかぎり一片の 帆影 ( ほかげ )も見えぬ、遠い波は 青螺 ( せいら )のごとくおだやかに、近い波はしずかな風におくられて、ところどころに突出した 岩礁 ( がんしょう )におどりあがりまいあがり、さらさらとひいてはまたぞろぞろとたわむれている。 その岩礁の上に! 見よ! 幾百とも知れぬ海ひょうが、うららかな春の日に腹をほして、あおむけに寝ころんだり、たがいにだきあってはころげおちたり、追いかけごっこをしてはかみあったり、なにかにおどろいたように首をあげては走って、波にとびこんだりしている。 一同はかれらをおどろかさぬように、木陰にかくれて昼飯をすまし、それから思い思いの 身支度 ( みじたく )にとりかかった。 年少組の 善金 ( ゼンキン )、 伊孫 ( イーソン )、次郎、ドール、コスターは、モコウとともに、テントのなかにとどめおくことにした。 その他はめいめい 猟銃 ( りょうじゅう )をさげて、 堤 ( つつみ )のかげをつとうて河口へおり、浜辺の岩のあいだを腹ばいになってすすんだ。 生まれて一度も人間のすがたを見たこともなく、よしんば人間を見ても、いまだ一度も他から 危害 ( きがい )をくわえられたことのない海ひょうどもは、かかるべしとは夢にも知らず、いぜんとしてばらばら、ぞろぞろ、組んずほぐれつ遊びたわむれている。 一同はしあわせよしと喜びながら、たがいに十 間 ( けん )くらいずつの 間隔 ( かんかく )をとって、一列にならび、海ひょうの群れを陸のほうに見て、海のほうへ一文字に 横陣 ( よこじん )をすえて海ひょうの逃げ路をふさいだ。 「用意!」とゴルドンは手をもってあいずをした。 「うて!」 九ちょうの 猟銃 ( りょうじゅう )は一度に鳴った。 距離 ( きょり )は近し、まとは大きい、一つとしてむだの 弾 ( たま )はなかった。 ぼッぼッぼッと白い煙がたって風に流れた。 海ひょうはびっくりぎょうてんして上を下へとろうばいした、ただ見る一 塊 ( かい )のまどいがばらばらととけて四方にちり、あるものは海へとびこみ、あるものは岩にかくれ、あるものは逃げ場を失って、岩の上をくるくるまいまわった。 煙がぼッぼッぼッととぶ、銃声は青天にひびいて海波にこだまする。 もうもうたる白煙のもと! 泡だつ波のあいだに見る見る海ひょうしのしかばねが横たわった。 「そらゆけ!」 一同は思い思いに海ひょうをとらえた。 「ステキに大きなやつがいる」 とひとりは 脚 ( あし )をとってさかさにつるして見せる。 「いや、それよりも大きなのがここにもある」 とひとりがいう。 歓喜 ( かんき )の声! 三十余頭の海ひょうを、九人の少年がえいえい声をあわして運んで来たとき、年少組はおどりあがってかっさいした。 「毛皮の 外套 ( がいとう )が着られるね」 とコスターはいった。 「ぼくは帽子にする」 とドールがいった。 「ぼくはさるまたにする」 と 善金 ( ゼンキン )がいう。 「毛皮のさるまたをしてるものは 雷 ( かみなり )さまだけだよ」 と 伊孫 ( イーソン )がいう。 「雷さまのさるまたはとらの皮だ」 「海ひょうのさるまたはモダーンの雷だ」 一同は腹をかかえて笑った。 このあいだにモコウは、二つの大きな石をならべてかまどをつくり、それに大なべをかけて湯をわかすと、ゴルドンらは海ひょうの皮をはいでその肉を六七百匁ほどの大きさに切り、どしどしなべにほうりこんだ。 「やあやあ、くさいくさい」 年少組は鼻をつまんで逃げだした。 「しんぼうしたまえよ」 やがてあわだつ 湯玉 ( ゆだま )の表面に、ギラギラと油が浮いてきた。 「さあさあくみだせくみだせ」 一同は肉をなべにほうりこんでは、ひしゃくをもって油をたるにくみだした。 それは一分一秒も休息するまがないほどの、いそがしさであった。 三十頭の海ひょうを 煮 ( に )て、数百ガロンの油をとりおわったときに、春の日もようやく西にかたむいて、 天 ( そら )には 朱 ( しゅ )のごとき夕焼けの色がひろがりだした。 それはあすの快晴を予報するものであった。 徳と才 千八百六十一年の新年がきた。 南方の一月は夏のさなかである。 指おり数うれば少年らが国を去ってからはや十ヵ月がすぎた。 故郷へ帰りたさは胸いっぱいであるが、救いの船が来なければ帰るべきすべもない。 またしても第二の冬ごもりの準備をせねばならなくなった、だがかれらはもう十分に経験をなめたので、すべての仕事はぬけめなく運んだ。 まず 家畜小舎 ( かちくごや )を 洞 ( ほら )の近くへうつす計画をたて、バクスター、富士男、サービス、モコウがその工事をひきうけた。 一方において、ドノバンとその一党たるイルコック、ウエップ、グロースの三人は、毎日 猟銃 ( りょうじゅう )をかついでは外へ出て、小鳥をとって帰った。 ある日富士男はゴルドンとともに森のなかを散歩した。 小高き丘にのぼると自分らの 洞窟 ( どうくつ )が一目に見える。 岩と岩のあいだ、こんもりとしげった林、川の方へひろがる青草の路、そのあいだに点々としてあるいは魚を 網 ( あみ )し、あるいは草をかり、あるいは家畜にえをやり、あるいは木材を運ぶ同士のすがたが 画 ( え )のごとく展開する。 「ああかわいそうだなあ」 富士男の眼には涙がかがやいていた。 「なにが?」 「ぼくらは年長者だから自分の運命に対してあきらめもつく、また気長く救いを待つ 忍耐力 ( にんたいりょく )もある、だがあのちいさい子たちは、家にいると両親のひざにもたれる年ごろだ。 この 絶海 ( ぜっかい )の 孤島 ( ことう )に 絶望 ( ぜつぼう )の十ヵ月をけみして、しかもただの一度も悲しそうな顔もせず、一生けんめいに心をあわして働いてくれる。 それはぼくらを信ずればこそだ。 かれらは一身をぼくらの手にまかしているのだ。 それにぼくらはかれらを救う道具を見いだしえない。 じつに情けないことだ。 ぼくらは自分の責任に対してまったくすまないと思う」 「いかにもそうだ」とゴルドンも 嘆息 ( たんそく )して、「しかしそれはぼくらの力でどうすることもできないことだ、しずかに運命を待とうじゃないか、きみの 憂欝 ( ゆううつ )な顔をかれらに見せてくれるなよ、かれらはきみをなにより信頼してるんだから」 「それについてぼくはきみに相談がある。 ぼくらはこの土地を絶海の孤島と認定してしまったが、まだぼくらの探検しつくさない方面がある、それは東の方だ、ぼくは念のために東方を探検したいと思うがどうだろう、あるいは東のほうに陸地の影を見いだすかもしれぬからな」 「きみがそういうならぼくも 異議 ( いぎ )はないよ。 五、六人の探検隊を 組織 ( そしき )していってくれたまえ」 「いや、五、六人は多すぎる。 ぼくはボートでもって平和湖を横ぎろうと思うのだ、ボートはふたりでたくさんだ、おおぜいでゆくとボートがせますぎるから」 「それは 妙案 ( みょうあん )だ、きみはだれをつれてゆくつもりか」 「モコウだ、かれはボートをこぐことが名人だ、地図で見ると六、七マイルのむこうに一 条 ( じょう )の川がある。 この川は東の海にそそぐことになっている」 「よし、それじゃそうしたまえ、だがふたりきりでは 不便 ( ふべん )だからいまひとりぐらい増したらどうか」 「けっこう、じゃぼくの弟次郎をつれてゆきたい」 「次郎君か? あんまりちいさいから、かえってじゃまになりゃせんか」 「いや、ぼくには別に考えがある。 次郎は国を出てから急に 沈鬱 ( ちんうつ )になって、しじゅうなにか考えこんでいるのはどうもへんだと思う、このばあいぼくはかれにそのことをたずねてみたいと思う」 「次郎君のことはぼくも気にかかっていた、きみがそうしてくれれば非常につごうがよい」 その日の夕飯時に、ゴルドンは富士男、モコウ、次郎を遠征に 派遣 ( はけん )するむねを一同に語った。 一同はことごとく賛成したが、ひとりドノバンは 不服 ( ふふく )をいいだした。 「それではこの遠征は、少年連盟の公用のためでなく、富士男君の私用のためなのかね」 「そんな 誤解 ( ごかい )をしちゃいかんよ、たった三人で遠征にでかけるのは、ひっきょう一同のために東方に陸地があるやいなやを探検のためじゃないか、きみは富士男君に対してそんな 誤解 ( ごかい )をするのは 紳士 ( しんし )としてはずべきことだよ」 ゴルドンはすこしくことばをあらげてドノバンを責めた。 ドノバンはだまって室を出ていった。 翌日富士男はモコウと次郎をつれてボートに乗り、一同にしばしの別れを告げた。 いま富士男がしるした日記の一節を左に 紹介 ( しょうかい )する。 二月四日 朝八時ぼくは次郎とモコウをしたがえて一同に別れを告げた。 ニュージーランド川より平和湖へこぎだすに、この日天気 晴朗 ( せいろう )、南西の風そよそよと吹いてボートの走ること矢のごとし。 ふりかえって見ると湖のほとりに立っている諸友の影はだんだん小さくなり、 棒 ( ぼう )の先に帽子をのせてふっているのはゴルドンらしい、大きな声でさけんでいるのはサービスだろうか。 それすらもう水煙 微茫 ( びぼう )の間に見えなくなって、オークランド岡のいただきも地平線の下にしずんでしまった。 十時前後から風ようやく小やみになって、正午には風まったくなくなった。 帆をおろして三人は昼食を食べた。 それからモコウとぼくがオールをとり、次郎にかじをとらして、さらに北東にこいでゆくと、四時になってはじめて東岸の森が低く水上に浮かびでるのを見た。 湖の 面 ( おもて )はガラスのごとくたいらかで、水はなんともいえぬほどすんでいる。 十五、六尺下にしげっている水底の植物と、これらの植物のあいだを群れゆく無数の魚は手にとるごとく見える。 午後六時にボートは東岸の丘についた、そこはちょうど川口になっているので、山田先生の地図にある川はこれだとわかった。 ぼくはこれに名をつけた。 「東川」 この夜はボートを岸につないで三人は 露宿 ( ろじゅく )した。 五日 朝六時に起きふたたびボートにあがりただちに川にこぎいれた。 ちょうど 退 ( ひ )き 潮 ( しお )のときだからボートはおもしろいように流れをくだって、モコウがひとりオールをもって両岸の岩につきあたらないようにするだけであった。 ぼくはともにすわって両岸をながめゆくに、つつみの上には一面に樹木が密生し、そのなかにまつとかしわがもっとも多かった。 これらの樹木のなかにその枝あたかもかさのごとく四方にひろがり、ていていとしてひいでたる樹を発見した。 その枝には長さ四、五寸の円すい形の実がぶらりぶらりたれてある。 ぼくはゴルドンのように植物学にくわしくないが、これは博物館で見たことのあるストーンパインであるとわかった。 ストーンパインの実のなかには 楕円形 ( だえんけい )のかたい 実 ( み )があって生のまま食うとかんばしい、またこれから油をとることもできる。 樹間にはだちょう、のうさぎの類がいかにも愉快げに遊んでいる、二頭のラマが木蔭に休んでるのも見た。 十一時ごろから川の行く手に一道のうっすりとした青い色が、しだいしだいに地平線上にあらわれた、それは海であった。 この湾はサクラ湾とはまったくおもむきを 異 ( こと )にし、サクラ湾のように一帯の砂地ではなく、無数の 奇岩怪石 ( きがんかいせき )があるいは巨人のごとくあるいはびょうぶのごとくそこここに 屹立 ( きつりつ )している、しかもこの岩と岩のあいだには冬ごもりに適当な洞穴がいくつもいくつもあった、もしぼくらが最初にここに 漂着 ( ひょうちゃく )したなら、このところを住まいとなしたであろう。 ぼくはこんなことを考えながら望遠鏡をとって東のほうを熱心にながめた、 双眸 ( そうぼう )のふるかぎりはただ 茫々寂々 ( ぼうぼうじゃくじゃく )たる 無辺 ( むへん )の大洋である。 そのあいだに一点の 帆影 ( はんえい )も見えない、一 寸 ( すん )の 陸影 ( りくえい )も見えない。 「やはり海ですね」 とモコウはがっかりしていった。 「たぶんそうだろうとは思ったが……いよいよぼくらは絶海の孤島に 漂着 ( ひょうちゃく )したことがたしかになった」 とぼくはいった。 そうしてぼくはこの湾に命名した。 「 失望湾 ( しつぼうわん )」 このときモコウは、あわただしくぼくの腕をとらえてさけんだ。 「あれはなんでしょう」 モコウの指さすほうを望み見ると、水天 髣髴 ( ほうふつ )のあいだに一点の小さな白点がある。 ぼくは雲のひときれだろうと思った、だがじっとそれを見ているが白点は少しも動かぬ、大きくもならなければ小さくもならぬ。 「山だ、だが山はあんなに白く見えるはずがない」 ぼくらはなおもかわるがわる望遠鏡をとってながめたが、もう太陽は西にかたむいて海波に 金蛇 ( きんだ )がおどれば、 蒼茫 ( そうぼう )たるかなたの雲のあいだに例の白点が消えてしまった。 「波が太陽の光線を反射したのでしょう」 とモコウがいった。 「そうだそうだ」 と次郎もいった。 だが僕にはどうしても単に光線の反射とのみは思えなかった。 富士男の日記はこのページから 厳封 ( げんぷう )されて読むことができないから、著者からさらにその夜のできごとを報道することにしよう。 河口にボートをつないで、三人は、とちゅうで 撃 ( う )ったしゃこを焼いて晩 飯 ( めし )をすました、六時は過ぎたが 進潮 ( でしお )まではまだ三時間もあるから、モコウはストーンパインを 採集 ( さいしゅう )して諸友へのおみやげにしようと森のなかへはいった。 背中に重さを感ずるほどストーンパインをおうてボートへ帰ると、富士男と次郎のすがたが見えない。 「はてな、めずらしい草でも採集してるのだろうか」 モコウがこう思いながら深い草を分けてゆくと、とつぜん大きな木の下から次郎の泣き声がきこえた。 おや! と思うまもなく富士男のしかる声、 「なんということをしたのだ、それでおまえは良心にはじるから、ふさぎこんでいたのだね」 「ごめんなさい、兄さん、ぼくが悪かったのです」 「悪かったというだけではすまないじゃないか、みんながこんなに 難儀 ( なんぎ )するようになったのも、おまえが悪かったからだ、こんなはなれ島にみんなを……」 「ごめんなさい、だからぼくはみんなのためにはいつでも 命 ( いのち )をすてます」 「そうだ、おまえはおまえの 罪 ( つみ )をあがなわなきゃならんぞ」 モコウはがくぜんとしてそこを去ろうとした、がそれはすでにおそかった。 次郎がおかした罪のしさいを、すでに、ことごとく聞いてしまったのだ。 兄弟の永久の秘密を! 人の秘密を立ち聞きするほど 卑劣 ( ひれつ )な行為はない、しかも主人兄弟の秘密である。 さりとて聞いてしまったうえは、もはやとりかえしがつかぬ。 モコウは足をしのばしてボートへ帰り、ひとり出発の準備をしていると、やがて富士男がひとりもの思わしげに帰ってきた。 「次郎さんは?」 とモコウがきいた。 「次郎はいまうさぎを撃っている」 富士男はこういってボートにはいった。 「富士男さん!」 モコウはとつぜん富士男の前にひざまずいた。 「ぼくはひじょうに悪いことをしました」 「なんだきみは?」 富士男はおどろいてモコウの顔を見た。 「ぼくはいま木の 陰 ( かげ )へゆきましたら、聞くともなしに次郎さんの 告白 ( こくはく )を聞きました」 「聞いたか?」 富士男の顔は、さっと青白くなった。 「聞きました、聞くつもりでなかったけれども聞きました。 ですが富士男さん、どうか次郎さんの罪をゆるしてあげてください」 「ぼくは兄弟だからゆるしてやりたいが、しかしみんなはけっしてゆるさないだろうと思う」 「むろんゆるしはしますまいが、それをいま荒らだてて言ったところで、しようのないことです、いずれ次郎さんにはそれをつぐなうだけの 手柄 ( てがら )はさせますから、それまではどうか秘密にしてあげてください」 「きみがそういうなら、ぼくもいましいて弟の罪はあばきたくないよ」 「ありがとうございます」 「いや、お礼はぼくがきみにいわなきゃならんのだ」 やがて次郎がうさぎをさげて帰ってきた。 十時になって潮がさし始めた。 三人はボートをこぎだした。 ちょうどその夜は満月であった、 清光 ( せいこう )昼のごとく、平和湖に出たのはもう夜半であった。 その夜はそこに一泊し、翌日の午後六時ごろぶじ 左門洞 ( さもんどう )につくことができた。 そのとき 湖畔 ( こはん )につり糸をたれていたガーネットが三人のボートを見るやいなや、さおをすてて洞穴へ走り、三人の帰着をしらせたので、連盟少年はゴルドンをはじめとし一同でむかえて万歳をとなえた。 この夜富士男は一同をあつめて遠征の結果を報告し、北東のほうに見えたあやしき白点のことなどをつまびらかに語った。 いろいろな議論が出た。 「鳥か雲かをたしかめるために船をつくって遠征しよう」 「いや、そんなことに骨を折るよりもこの島に 安住 ( あんじゅう )するほうがよい」 議論の結果はやはりむだな 冒険 ( ぼうけん )をせずに冬ごもりの準備をするほうがかしこきしかただと決定した。 この月の 中旬 ( ちゅうじゅん )イルコックはニュージーランド川に一 隊 ( たい )のさけがくだりゆくのを発見したので、毎日あみをおろしてさかんにさけを 捕獲 ( ほかく )した。 ところがさけが多くとれればそれをたくわえる方法を考えなければならぬ。 そこでひじょうにたくさんの 塩 ( しお )が必要になった。 一同はサクラ湾に 製塩場 ( せいえんじょう )をつくった。 もとより完全なものではないが、浜辺に四角の大きな水ぶねをおいて、それに 潮水 ( しおみず )をくみいれ、太陽の熱でもってその水気を 蒸発 ( じょうはつ )させ、その底にのこった塩をかきあつめるようにしたのである。 これはじつにはかばかしからぬ計画である、だが少年の共同一致の 誠 ( まこと )の力は十分に塩を製しうることができた。 三月になってドノバンはウエップとイルコックのふたりとともに毎日小鳥がりをつづけた。 ゴルドンはみずから主となってだちょうの森へいってまきを 採伐 ( さいばつ )し、二頭のラマをつかって 運搬 ( うんぱん )をしたので、六ヵ月分以上のまきの貯蓄ができた。 このあいだにもゴルドンは例の日課の勉強だけは一度も休まなかった、一週に二度の 討論会 ( とうろんかい )もつづけた。 討論会ではいつもドノバンが 能弁 ( のうべん )をふるって一同をけむにまいた。 ある日、四月二十五日の午後、少年連盟の上にとりかえしのつかぬ 不詳 ( ふしょう )の事件がおこった。 それはほんのささいな 輪 ( わ )投げの遊戯からの 衝突 ( しょうとつ )である。 輪投げというのは平地の上に二本の棒を立て、一定の 距離 ( きょり )をとってこの棒にはまるように木製の輪を投げるのである。 リーグ戦の一方は富士男、バクスター、サービス、ガーネットの一隊で、一方はドノバン、ウエップ、イルコック、グロースの四人である。 最初は合計七点で富士男組が勝った、つぎは六点でドノバン組が勝った。 最後の決勝! それこそきょうの晴れの勝負である。 幼年組が熱中するにつれて年長組もだんだん 昂奮 ( こうふん )してきた。 一点また一点、双方が五点ずつとなった、しかも残ったのは両軍ともひとりずつすなわちドノバンと富士男の一 騎打 ( きう )ちである。 「ドノバン、しっかりたのむよ、負けたらたいへんだ、どうだね」 ウエップはむちゅうにさけんだ。 「だいじょうぶだよ、ぼくの手並みを見ておれ」 ドノバンはどんな小さなことでも他人に負けるのがきらいであった。 それだけかれは 不屈不撓 ( ふくつふとう )の 気魄 ( きはく )をもっているのだが、ときとして負けるのがいやさにずいぶん 卑劣 ( ひれつ )な 手段 ( しゅだん )を用うることがある。 かれは輪に手を持ったまま、きっとくちびるをむすんで鉄の棒をにらんだ。 もしかれが勝負を度外においてただ遊戯本位に考えをまとめ、負けてもきれいに負けようという気になって胸をしずめたなら、十分に成功したかもしれないのであった。 負けたくない負けたくないといういらいらした気分が頭にせりあがるために、かれの 神経 ( しんけい )はつりあいを失いねらいを正確に定めることができなかった。 かれは 矢声 ( やごえ )をはなって輪を投げた、輪はくるくると 旋回 ( せんかい )して棒の頭にはまらんとしてかすかにさすったまま地上に落ちた。 「しまった」 とグロースがいった。 「いやいや敵もまたしくじるから同点になるよ、見ていたまえ」 とイルコックがいった。 最後に富士男の番になった。 「富士男君たのむぜ」 とサービスがいった。 「あてにするなよ、ぼくはへただから」 と富士男は 微笑 ( びしょう )した。 そうしてはるかの棒を見やった。 かれはもとより 勝敗 ( しょうはい )に興味をもたなかった、負けたところでさまでの恥でもないし、勝ったところでほこるにたらず、こう思っている。 かれは棒と自分の 距離 ( きょり )をはかり、それから手に持った輪の重さと 旋回 ( せんかい )の力を考え、つぎに自分のからだの位置とコントロールを考えてるうちに、それを考えることの 興味 ( きょうみ )のほうが勝敗の興味よりもずっと深くなってきた。 それだけかれは 冷静 ( れいせい )であった。 かれはねらいを定めて輪を投げた、輪はうなりを生じて 鉄棒 ( てつぼう )を中心にくるくるくるとからまわりをしながら棒の根元にはまった。 「二点! 万歳! 総計七点! 万歳!」 サービスはおどりあがってさけんだ。 「万歳! 勝った」 とバクスターもガーネットもおどった。 「 異議 ( いぎ )がある」 とドノバンはさけんだ。 「なんだ」 とサービスがいった。 「富士男君はカンニングをやった」 「そんなことはない」 「いやカンニングだ」 ドノバンはまっかになってサービスをどなった。 「どうしてカンニングというか」 「富士男君はラインの外に足をふみだした」 「それはきみの見あやまりだ、富士男君は一歩も足をふみださない」 「いやふみだした」 ふたりの争いがあまりにはげしくなるのを見て富士男は前へすすみでた。 「ドノバン君、こんなことは遊戯だからどうでもいいけれども、しかしカンニングで勝ったと思われては人格上の問題になるから、それだけは 弁明 ( べんめい )しておくよ、僕はけっしてラインをわらなかったよ」 「いやわった」 「ではくつのあとと 白墨 ( はくぼく )の線とを見てくれたまえ」 「そんなものは見んでもわかってる、きみは 卑劣 ( ひれつ )だよ」 「卑劣? そんなことばがきみの口から出るとは思わなかったね」 「卑劣だ、いったいジャップは卑劣だ、なんだ有色人種のくせに」 ドノバンはペッと大地につばをはいた。 富士男の顔はさっとあからむとともに、そのいきいきとした 大和民族 ( やまとみんぞく ) 特有 ( とくゆう )のまっ黒なひとみからつるぎのごとき光がほとばしりだした。 「もういっぺんいってみろ」 「ジャップは卑劣だ、有色人種は卑劣だ」 「こらッ」 富士男はドノバンの腕をぐっとつかむやいなや、右にひきよせて 岩石 ( がんせき )がえしに大地にたたきつけた。 それはじつに 間 ( かん ) 髪 ( はつ )をいれざる一せつなの早わざである。 他の少年たちはただあっけにとられて眼をぱちくりさせた。 「もういっぺんいう勇気があるか」 富士男はぐっとそののどもとをおさえていった。 がこのときゴルドンが急をきいてかけつけてきた。 「どうしたんだ、まあよせよ」 かれは富士男をひいて立たしめ、それから赤鬼のごとく歯がみをして立ちあがったドノバンの腕をしっかりとつかんだ。 「どうしたんだ、きみらにはにあわんことをするじゃないか」 「ぼくは 卑怯者 ( ひきょうもの )を卑怯だといったのに富士男は 乱暴 ( らんぼう )をした」 とドノバンはいった。 「それはいかん、きみが富士男君を卑怯者だといったのが悪い」 「しかしかれは 腕力 ( わんりょく )に……」 「 侮辱的 ( ぶじょくてき )のことばは腕力よりも悪いよ」 「そんなことはない」 「きみはだまっていたまえ」 ゴルドンはこういって富士男にむかい、 「どうしてこんなことになったのだ」 「ドノバン君がぼくを卑劣だといっただけなら、ぼくはききながしておくつもりだったのだ、だがかれは遊戯に負けたくやしさのやり場がないところから、ぼくをカンニングだの卑劣だのといったうえに、ジャップは 卑劣 ( ひれつ )だ、有色人種は卑劣だといったから、ぼくはちょっとジャップの 腕前 ( うでまえ )はどんなものかを見せてやっただけだ」 「ほんとうか」 ゴルドンは顔色をかえてドノバンにいった。 「ほんとうとも、ぼくの本国では日本人と犬入るべからずと書いた紙札を 畠 ( はたけ )に立ててあるんだ」 「きみは……けしからんことをいう」 とゴルドンはどなった。 「このとおりだ」と富士男は笑って「アメリカ人が犬であるか、日本人が犬であるか、いまぼくがいうまでもなく諸君がわかったろう。 諸君、ぼくは 高慢 ( こうまん )なアメリカ人、 伝統 ( でんとう )のないアメリカ人、 礼儀 ( れいぎ )も知らず道義も知らず 物質万能 ( ぶっしつばんのう )のアメリカ人、とこういったなら米国人はどんな気持ちがするだろう。 おたがいにその国をののしったり、 種族 ( しゅぞく )をののしったりすることはつつましまなければならん。 他をののしることはやがてみずからをののしることなのだ、がんらい少年連盟は八ヵ国の少年をもって 組織 ( そしき )された世界の王国なのだ。 もし人がぼくにむかってきみはどの国民かときいたなら、ぼくはいまたちどころに答えるであろう、僕は少年連盟国の人民ですと。 この島にあるかぎりはぼくは連盟をもって僕の 国籍 ( こくせき )とする、それでなければ長い長いあいだの 洞窟生活 ( どうくつせいかつ )ができべきはずがない。 じっさいぼくは連盟国のひとりとして世界に立ちたい、もしさいわいにぶじにニュージーランドへ帰ることができれば、ぼくはさらに連盟を 拡大 ( かくだい )して世界の少年とともに、健全な王国を 組織 ( そしき )したいと思っているのだ。 ドノバンはなんのためにその 頑冥 ( がんめい )なほこりと 愚劣 ( ぐれつ )な人種差別とをすてることができないのだろう。 なぜその 偏狭 ( へんきょう )な胸をおしひらいて心の底からぼくらと兄弟になることができないのだろう。 日本のことわざに 交 ( まじ )わりは 淡 ( たん )として水のごとしというのがある、日本人は水のごとしだ、 清浄 ( せいじょう )だ、 淡白 ( たんぱく )だ、どんな人とでも胸をひらいて 交 ( まじ )わることができる。 しかるに米国人たるドノバンはいつもにごっている。 ぼくは日本をほこるのじゃない、米国をののしるのじゃない、しかしきょうこんなさわぎになったのをみて諸君の公平な眼で見た 裁判 ( さいばん )に一任する。 ぼくが正しいか、ドノバンが正しいか、ジャップたるぼくが正しいとすれば、ヤンキーたるドノバンはのろわれねばならん、そうしてその国の 名誉 ( めいよ )もけがされねばならん」 「そのとおりだ」 とゴルドンはげんぜんとしていった。 「ドノバン君、あやまりたまえ」 「いやだ」とドノバンはいった。 「きみはいつでも富士男君のかたをもつんだね」 「富士男君は正しいからだ、ぼくは連盟の 総裁 ( そうさい )として正しきにくみするだけだ、どう考えてもきみは悪い」 「悪くないよ」 「まあ待てよ、きみはいま 昂奮 ( こうふん )してるから、とにかく森のほうへでも行って 熱気 ( ねっき )をさましてきたまえ、富士男君もそれまであまり 追究 ( ついきゅう )せずにいてくれたまえ」 「ぼくはいつでもドノバン君と 握手 ( あくしゅ )したいと思っているよ」 と富士男はいった。 五月になるとそろそろ寒さがきびしくなってきた。 森の小鳥は遠く海をこえてあたたかな地方へうつった。 一同は毎日多くのつばめをつかまえてはそのくびに一同が 漂着 ( ひょうちゃく )のことを書いた 布 ( ぬの )をむすびつけて、はなしやった。 六月になると大統領の改選期である。 ドノバンはこんどこそは自分が大統領に選挙されるだろうと、例のもちまえのうぬぼれからそのときがくるのを待っていた。 ところがじっさいにおいてはかれを 好 ( す )くものはイルコック、ウエップ、グロースの三人だけで、その他の少年はドノバンをこのまなかった。 それはドノバンがその才知にまかせて 弁舌 ( べんぜつ )をふるい、他の少年を眼下に見くだすためと、いま一つは富士男のために投げとばされてさんざん 説教 ( せっきょう )された 醜態 ( しゅうたい )を演じたためである。 だが少年の心は 単調 ( たんちょう )を喜ばぬ、かれらはそろそろゴルドンがいやになってきた。 温厚 ( おんこう )なゴルドン、常識にとんだゴルドン、しかも少年たちにはきびしく毎日の 学課 ( がっか )を責めて、すこしもかしゃくしないゴルドン。 どこが悪いというでもないが、なんとなくこんどの大統領はゴルドンでなく別の人であってほしいような気がした。 六月十日の午後、選挙会が開かれた。 めいめいは紙片に 候補者 ( こうほしゃ )の名をしるして箱に投ずることとなった。 ゴルドンは英国人特有のげんしゅくな 態度 ( たいど )で選挙長のいすについた。 選挙の結果は左のごとくであった。 富士男は最大多数であった。 ゴルドンとドノバンは選挙権をすて富士男はゴルドンに投票し、ウエップ、グロース、イルコックはドノバンに投票したのであった。 票数 ( ひょうすう )がよみあげられ、大統領は富士男と決定した、ドノバンは 絶望 ( ぜつぼう )のあまり 面色 ( めんしょく )を土のごとくになしてくちびるをかんでいた。 富士男はひじょうにおどろいて百方 辞退 ( じたい )したが 規律 ( きりつ )なればいたしかたがなかった。 「ぼくはとてもその任ではないと思うけれども、ゴルドン君に助けてもらったらあやまちなくやってゆけるだろうと思う」 かれはこういってようやく 就任 ( しゅうにん )した。 万歳の声が森にひびき雪の野をわたって平和湖までとどろいた。 この夜富士男はひそかに弟の次郎をよんだ。 「次郎君、ぼくが大統領になったのをきみはどう思うか」 「ぼくはひじょうにうれしいよ、兄さん」 「どうして?」 「兄さんが大統領になったから、どんな用事でもだれにでもいいつけられるだろう、そうすると兄さん……これからいちばんむずかしい仕事があったらぼくにいいつけてください、ぼくは命をすててもかまわないから」 富士男はにっこり笑っていった。 「よくいってくれたね次郎君、じつはぼくもそう思っているのだ」 サクラ 湾頭 ( わんとう )に立てた 旗 ( はた )がさんざんに破れたので、 蘆 ( あし )をとって大きな球をつくりそれをさおの先につけることにした。 八月といえば北半球の二月である。 寒暖計の水銀は 零 ( れい )点下三十度にくだる日が少なくなかった。 少年らは 終日 ( しゅうじつ )室内から一歩も出ることはできない。 かれらは喜んで富士男の 指揮 ( しき )にしたがった。 一同がもっとも 感激 ( かんげき )したのはゴルドンの 態度 ( たいど )であった、かれは大統領の任を富士男にわたすとともに 率先 ( そっせん )して他の少年とともに富士男の号令に服従して、もっとも美しき例をしめした。 が、人心はその面のごとく 異 ( こと )なる。 少年連盟におそるべき事件が 勃発 ( ぼっぱつ )した。 分裂 ( ぶんれつ ) 暖気がにわかにまわって湖水の氷が一時にとけはじめた。 島に二年目の春がおとずれたのだ。 天は 浅黄色 ( あさぎいろ )に晴れて 綿雲 ( わたぐも )が夢のように浮かぶ。 忍苦 ( にんく )の冬にたえてきた木々がいっせいに 緑 ( みどり )の 芽 ( め )をふきだす。 土をわって草がかれんな花をつけた。 金粉 ( きんぷん )の日をあびて小鳥が飛びかい、樹上に胸をふくらまして千 囀 ( てん )百 囀 ( てん )する。 万物がみないきいきとよみがえったのだ。 それにもまして喜んだのは長い冬ごもりに、自由をうばわれていた少年連盟である。 幼年組も年長組も一団となって洞穴をぬけだし、春光まばゆい広場で思う存分にはねまわった。 ワッという笑い声が広場の一角にわいた、走りはばとびのスタートをきったモコウが、コースのとちゅうでつまずいて、まりのようにころんだのだった。 かれはすばやく起きあがると頭をかきかき新しくスタートをきりなおした。 急霰 ( きゅうさん )のような 拍手 ( はくしゅ )が島をゆるがす、小鳥がおどろいて一時にパッと飛びたった。 一同はまるでなつかしい校庭で遊びたわむれているときのように競技にむちゅうである。 洞門の前の小岩にこしをかけて、一同の 嬉々 ( きき )とするさまを見まもっていたゴルドンは、ニッコリして富士男にいった。 「あの元気いっぱいさはどうだ、みんなうれしそうだね」 「だが、ドノバンらがいないのはどうしたんだろう?」 富士男はさっきからさがしているのだったが、ドノバン、グロース、ウエップ、イルコックの四人のすがたはどこにも見あたらなかった。 「みなが楽しそうに遊んでいるのに、四人をのけものにしては悪い、よんでこよう」 と富士男が立ちあがった。 「ぼくもゆこう」 ふたりは洞穴のなかにはいった。 室のすみに頭をあつめて、なにごとか相談にふけっていた四人は、ふたりの足音におどろいて話をやめた。 「ドノバン君! 室のなかにいないで、外へ出て遊ぼうじゃないか」と富士男がいった。 「いやだ!」 とドノバンがいった。 「なぜだい」 とゴルドンがいった。 「なぜでもいいよ。 ぼくらはここにいたほうがおもしろいんだ。 ね、諸君」 こういって、ドノバンは三人と顔をあわしてニヤリと笑った。 「そうか」 とふたりは室を出た。 輪 ( わ )投げの事件があってから、ドノバンの富士男に対する 態度 ( たいど )は目だって変わってきた。 富士男は日本人の 気性 ( きしょう )としてあっさりと水に流したのだったが、 倣岸 ( ごうがん )のドノバンは、心をひらこうとはしない。 そして大統領の選挙にもれてからは、ことごとに富士男にたてをつくようになった。 ゴルドンはふたりのあいだにおって百方力をつくして、ふたりの交情をやわらげようとつとめたが、それはなんの 効果 ( こうか )もあたえなかった。 ついにドノバンは、グロース、ウエップ、イルコックの三人と 党 ( とう )を組んで、食事のときのほかは一同と顔をあわすこともほとんどまれとなり、多くは洞穴の一 隅 ( ぐう )にひとかたまりとなって首をあつめなにごとかひそひそと語りあうのであった。 「ねえ、ゴルドン君、ぼくはこのごろかれらの 態度 ( たいど )が不安でたまらない」 「どうして」 「人を 疑 ( うたが )うことは日本人のもっとも 忌 ( い )むところだ。 だが、ぼくはドノバン君の 態度 ( たいど )を見るに、なにごとかひそかにたくらんでいるように疑えてならないんだ」 「ハハハ、きみにもにあわない、いやに 神経過敏 ( しんけいかびん )だね」 こういってゴルドンは笑った。 「たといかれらがなにごとかひそかにはかることがあろうとも、それはきみに対する 謀反 ( むほん )ではないさ、連盟員一同がきみを捨てて、ドノバンにくみしはしないことぐらい、いくらうぬぼれの強いドノバンでも、知ってるだろうからね……」 「いやかれらはぼくらを捨てて、この左門洞を去ろうとしている」 「ハハハ、ますます 過敏症 ( かびんしょう )になるね。 こりゃなにか、おまじないをして、早くなおさなけりゃ一同が心配するよ」 「ゴルドン君!」 富士男はキッとなっていった。 「じょうだんごとではないのだ、ぼくはたしかな 証拠 ( しょうこ )をにぎったのだ」 「証拠?」 とゴルドンは富士男のしんけんさに、真顔になった。 「ゆうべぼくはなぜか 寝苦 ( ねぐる )しくってしかたがなかった、ぼくは千を数えた、だがまだねむれない。 ぼくはとうとう寝ることを 断念 ( だんねん )した、外の夜気にでもあたってみようと、そっと 寝床 ( ねどこ )をぬけだした。 ぼくはついでだと思ったから、みんなの寝すがたを見てまわった。 ところが、ぼくは室の一 隅 ( ぐう )にポツンとあかりのさしているのに気がついた、ぼくはそっと近づいた、見ればイルコックが左門先生の地図を写しとっているのだ」 「…………」 「ね、ゴルドン君、きみも知ってるように、ドノバン一 派 ( ぱ )は、ぼくが命令するといつもいやな顔をする。 思うにかれらの不満は、ぼくの一身にこころよからざるところから発するのだ。 ぼくは大統領の 職 ( しょく )を 辞 ( じ )そうと思うよ、ぼくが現職にあるために連盟の平和をみだすようになっては心苦しい。 きみかあるいはドノバンにゆずったら、不和の根が絶えて、連盟はもとの平和にかえると思うんだ……」 「いや!」とゴルドンはカッと目をみひらいていった。 「富士男君、それはきみの 平生 ( へいぜい )ににざる言だ、もしそのようになったら、きみはきみを選挙した一同の信頼を、なんによってつぐなうのだ。

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ミシェル・エーケム・ド・モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne 関根秀雄訳 モンテーニュ随想録 ESSAIS DE MONTAIGNE 第三巻

黒い砂漠 労役の苦情

(エジプト,エジプトじん)(Egypt,Egyptian) エジプトとその住民のことは聖書中に700回以上言及されています。 エジプトはヘブライ語聖書中では大抵ミツライムという名称で呼ばれており(と比較),このことはハムの子ミツライムの子孫がその地域で際立った,もしくは支配的な存在であったことを指し示しているようです。 ()今日でも,アラブ人はエジプトにミスルという名称を当てています。 ある詩編では,エジプトのことが「ハムの地」と呼ばれています。 境界と地理 (第1巻,531ページの地図)古代においても現代においても,エジプトが存在してきたのはナイル川のお陰です。 そのナイルの肥沃な渓谷は,アフリカ北東部の乾燥した砂漠地帯を貫いて,細長い緑のリボンのように伸びています。 「下エジプト」は広いデルタ地域から成っており,ナイルの流れはそのデルタ地域で扇状に分かれて地中海に注いでおり,ある時期には少なくとも5本の支流に分かれていましたが,今日では2本に分かれているだけです。 ナイルの流れが分岐している地点(現代のカイロの地域)から海岸までは,およそ160㌔あります。 カイロの少し北には古代のヘリオポリス(聖書のオン)の遺跡があり,カイロの南数キロの所にはメンフィス(聖書では普通,ノフと呼ばれている)があります。 ()「上エジプト」の地域はメンフィスの南から始まり,渓谷をずっと上って,アスワン(古代のシエネ)にあるナイルの第一急流にまで及んでおり,その距離はおよそ960㌔あります。 しかし,この地域の北部を「中部エジプト」と呼ぶほうがもっと理にかなっていると考える学者も少なくありません。 この地域全体(中および上エジプト)の平たんなナイル渓谷は幅が19㌔を超えることはほとんどなく,渓谷の両側の縁は石灰岩や砂岩の断がいになっており,それらの断がいは砂漠そのものの端ともなっています。 第一急流を越えたところに古代エチオピアがあったので,エジプトは『ミグドル[エジプト北東部にあったと思われる所]からシエネまで,エチオピアの境界にまで』達していたと述べられています。 ()ヘブライ語のミツライムという語は,いつも決まってエジプト全土を指して使われていますが,多くの学者は,この語が下エジプトと,恐らく中エジプトを表わしており,上エジプトは「パトロス」と呼ばれている場合もあると考えています。 は,「エジプト[ミツライム],パトロス,クシュ」に言及していますが,これはアッシリアの王エサル・ハドンの碑文に同じように列挙されている地理上の場所と類似しています。 同王は自分の帝国内の場所として「ムツル,パトリシ,およびクース」の地域を挙げています。 エジプトは北は地中海に面し,南はナイル第一急流および ヌビア・エチオピアと境を接しており,西はリビア砂漠(サハラ砂漠の一部),東は紅海砂漠に囲まれていました。 したがって,エジプトの大部分は外界の影響からかなり隔離された状態にあり,侵略の危険からも守られていました。 しかし,北東部のシナイ地峡はアジア大陸との懸け橋となっており(),隊商(),移住者,それにやがて侵略軍がその陸橋を越えてやって来ました。 「エジプトの奔流の谷」は,普通,シナイ半島のワディ・エル・アリシュと同定されており,エジプトの既定の領土の北東の端を印づけるものとなっていたようです。 ()その向こう側がカナンでした。 ()ナイル川の西の砂漠には,エジプト王国の一部となった,少なくとも五つのオアシスがありました。 古代メンフィスの南西約72㌔の所にある大きなファイユーム・オアシスには,ナイル川から水路によって水が引かれていました。 経済はナイルに依存していた 今日,ナイル渓谷沿いの砂漠地方には動物を養う植物はほとんど,あるいは全くありませんが,証拠からすれば,古代のワディ,つまり奔流の谷にはエジプト人が狩猟の対象にした多くの動物がいました。 それでも,雨は乏しかったようで,今日ではごくわずか(カイロの年間降水量は恐らく50㍉)しか降りません。 したがって,エジプトでの生活はナイル川の水に依存していました。 ナイル川はエチオピアの山岳地やその近隣の地に源を発しています。 その地域では季節的にナイル川を増水させるほど十分の雨が降り,エジプトでは毎年7月から9月にかけてナイルの両岸にあふれる洪水を引き起こしました。 (と比較。 )その洪水により,かんがい用の運河や溜め池に水が供給されただけでなく,貴重な沈泥がたい積して土壌が肥沃になりました。 ナイル渓谷はデルタ地帯と共に非常に肥沃だったので,ロトの眺めた,よく潤されたソドムとゴモラの地域は「エホバの園のよう,エジプトの地のよう」であると言われました。 ()しかし,洪水による浸水の程度は一様ではありませんでした。 その程度が小さいと,産出量は少なく,その結果,飢きんが起きました。 ()ナイル川のはんらんが全く起きないということは,第一級の災害であり,国土が不毛の荒れ地に一変することを意味しました。 産物 農耕によってエジプトで豊かに産出された主要な作物は,大麦,小麦,スペルト麦(小麦の一種),および亜麻(この亜麻から上等の亜麻布が作られ,多くの国に輸出された)でした。 ()ぶどう園もあり,なつめやし,いちじく,ざくろなどの果樹もありました。 野菜畑からは,きゅうり,すいか,にら,たまねぎ,にんにくなど変化に富んだ産物が供給されていました。 ()中には,『その地に自分の足で引き水をする』()ことに言及している箇所は,足踏み式の水車が使われていたことを指していると解する学者もいます。 それはまた,かんがい用の水を流す水路を,足を使って開いたり閉じたりすることを指しているのかもしれません。 エジプトの近隣の国が飢きんに見舞われると,西暦前2千年紀の初めごろ,アブラハムがしたように,大抵,人々は地味の肥えたエジプトへ下って行きました。 ()やがて,エジプトは地中海地域の多くの土地のための穀倉地帯となりました。 西暦1世紀に使徒パウロがミラで乗船した,エジプトのアレクサンドリアからの船は,イタリアに向かう穀物運搬船でした。 エジプトのもう一つの重要な輸出品はパピルスでした。 これは,デルタ地帯の数多くの沼地に生育した,葦に似た植物で(と比較),書写材料を作るために使われました。 しかし,エジプトには森林がなかったため,フェニキアから木材を,とりわけティルスなどの港湾都市から杉材を輸入しなければなりませんでした。 一方,それらの土地ではエジプトの彩り豊かな亜麻布が珍重されました。 ()エジプトの神殿や記念碑は,花こう岩や,もう少し柔らかい石灰岩などの石で建てられました。 それらの石材はナイル渓谷に隣接する丘陵地から豊富に得られました。 普通の住居は,それに宮殿さえも,泥れんが(建造物の普通の建築材料)で建てられました。 エジプトの紅海沿いの丘陵地(それに,その向こうのシナイ半島内)にある鉱山からは金や銅が採掘され,その銅から造られた青銅も輸出されました。 畜産もエジプトの経済の面で重要な役割を演じました。 アブラハムはその地にいた時分に羊や牛,それにろばやらくだなどの駄獣を取得しました。 ()馬については,エジプトでヨセフが行政を担当していた時代(西暦前1737-1657年)の出来事の中で言及されており,アジアから導入されたものと一般に考えられています。 ()エジプト人は最初,それらの馬を貿易によって,あるいは北東方面の国々を襲撃した時に捕獲して取得したのかもしれません。 エジプトの馬はソロモンの時代までには十分の頭数に達しており,世界市場の重要な品目(エジプトの兵車と共に)として高く評価されるようになっていました。 猛きん類や腐肉を食べる鳥の類では,はげわし,とび,鷲,はやぶさなどが沢山おり,それにトキやツルを含め,多くの水鳥もいました。 ナイル川には魚がいっぱいおり(),カバやワニも珍しくはありませんでした。 (の象徴的な言葉遣いと比較。 )砂漠地帯にはジャッカル,おおかみ,ハイエナ,ライオンなど,それに様々な種類のへびや他の爬虫類が生息していました。 民族 エジプトの民族はハム人で,おもにハムの子ミツライムの子孫だったと思われます。 ()バベル で起きた離散の後(),ミツライムの子孫の多く,例えば,ルディム,アナミム,レハビム,ナフトヒム,およびパトルシムは北アフリカに移住したのかもしれません。 ()すでに指摘しましたが,パトロス(パトルシムの単数形)は上エジプトと関連がありますし,ナフトヒムをエジプトのデルタ地帯に位置づける幾らかの証拠もあります。 この国が太古の昔から数多くの地域(後に,ノモス[「州」の意]と呼ばれた)に区分され,またこの国が一人の主要な支配者のもとに統一された後も,実際,この帝国が終わる時まで,そのような分割が統治機構の一部になっていたという事実は,この国が異なった氏族から成る,どちらかと言えば混合民族の国であったという見解を支持しています。 一般的に42のノモスが認められており,20のノモスは下エジプトに,22のノモスは上エジプトにありました。 エジプトの歴史全体を通じて存続してきた上エジプトと下エジプトの区別は,恐らく地理的な相違と関係があったにせよ,やはり最初の部族的な区分を指し示しているのかもしれません。 中央政府が弱体化すると,この国はこれら二つの主要な区分に分裂する,さらには様々なノモスの中のおびただしい数の小王国に分裂しそうになる傾向がありました。 古代の絵画やミイラによれば,初期のエジプト人は一般に小柄で,やせており,ネグロイドではないものの,黒い顔をした人として描かれています。 しかし古代の絵画や彫刻には,明らかにかなりの多様性が見られます。 言語 現代の学者はエジプトの言語を「セム・ハム語族」という用語を使って分類する傾向があります。 この言語は基本的にはハム語族ですが,その文法とセム語族の文法との間には多くの類似点があり,語彙にもある程度の類似性があると言われています。 そのように関連があるように見えるにもかかわらず,「エジプト語は,セム系諸語が互いに異なっている以上にすべてのセム系諸語とも大いに異なっており,少なくともアフリカの諸言語との関係がもっと厳密に明らかにされるまでは,確かにセム語族以外の言語として分類されなければならない」ことが認められています。 (「エジプト語文法」,A・ガードナー著,ロンドン,1957年,3ページ)ヨセフは自分の身元を兄弟たちに隠していた時,エジプト人の通訳を介して彼らと話をしました。 いずれにしても,エジプトで使われた言語の最初期の形態について明確な結論を下すのを極めて困難な事柄にしている要素が幾つかあります。 その一つはエジプト語の文字体系です。 古代の碑文には象形文字(動物,鳥,植物,その他の物体の形を表わしたもの)が,ギリシャ人によりヒエログリフ(聖刻文字)と呼ばれた文字体系である,特定の幾何学模様の文字と共に使われています。 ある象形文字は音節を表わすようになりましたが,それらは聖刻文字を補足するために使われたにすぎず,決して聖刻文字に取って代わるものではありませんでした。 その上,それらの音節文字によって表わされる正確な音声は,今日,知られていません。 しかし,西暦前2千年紀の中ごろにさかのぼる初期の楔形文字の特定の銘文にはエジプトに言及している箇所があり,それが幾らか助けになっています。 同様に,エジプト語の名前や西暦6世紀ごろの年代のものとされる他の言葉で,ギリシャ語に書き換えられたもの,およびそれから約1世紀後に始まったアラム語への書き換えからも,書き換えられたエジプト語の言葉のつづり方がある程度分かります。 しかし,古代エジプト語の音韻体系,つまり音声体系の復元は依然として,おもに西暦3世紀以降話されてきたエジプト語の一種であるコプト語に基づいています。 それで,最初期の,とりわけイスラエル人がエジプトに寄留していた時代以前の形態の,元の古代の語彙の構造は,それに近いものを推測できるにすぎません。 一例として,「」を参照してください。 さらに,アフリカの他の古代ハム系諸言語に関する知識も今日,ごく限られているため,エジプト語とそれらの言語との関係を確定するのは困難です。 エジプト語ではないアフリカ諸言語の碑文で,西暦紀元以前のものは知られていません。 諸事実は言語が混乱させられたことに関する聖書の記述を裏付けており,ミツライムを通してハムの子孫となった初期エジプト人がセム系諸語とは異なる別の言語を話していたことは明らかなように思われます。 聖刻文字は特に記念碑の碑文や壁画に使われており,その記号は極めて精細に仕上げられています。 聖刻文字は西暦紀元の始まるころまで,それも特に宗教的なテキストのために引き続き使われましたが,もっと簡易化された筆記体を使う,繁雑さのより少ない文字が,革やパピルスにインクで書く書記たちによって初期の時代に作り出されました。 神官文字と呼ばれるこの文字に続いて,民衆文字と呼ばれる,さらに進んだ筆記体ができ,それはとりわけ「第26王朝」と呼ばれる時代(西暦前7および6世紀)以降使われるようになりました。 エジプト語のテキストの解読が成し遂げられたのは,1799年にロゼッタ石が発見されてからのことです。 現在,大英博物館にあるその碑文は,プトレマイオス5世(エピファネス)に敬意を表した布告文で,西暦前196年のものです。 その文章はエジプトの聖刻文字と民衆文字,およびギリシャ語で書かれており,そのギリシャ語のテキストがかぎとなって,エジプト語の解読が可能になりました。 宗教 エジプトは極端に宗教的な土地で,多神教が盛んに行なわれていました。 どの都市や町にもそれぞれ,「都市の主」という称号を持つ,独自の土地の神がありました。 トトメス3世の墳墓で見つかった一覧表には,およそ740柱の神々の名が載せられています。 ()多くの場合,それらの神は女神と結婚している者として表わされており,女神は一人の息子を産み,「こうして三つ組の神,もしくは 三位一体を構成していたが,それでもその三位一体の中で父は必ずしも長ではなく,時には女王の夫君の役割に甘んじていることもあり,女神がその土地の主神の地位にとどまって」いました。 (新ラルース神話百科事典,1968年,10ページ)主神はそれぞれ,一般の人々には公開されない神殿に住んでいました。 (と対比。 )この点で,神官たちはファラオの代表者を務めていると考えられていたようです。 ファラオ自身は神ラーの子で,生ける神であると考えられていました。 そのような状況を考えれば,モーセとアロンがファラオの前に行って,まことの神からの布告を伝えた時の勇気は際立ったものであり,『エホバが何者だというので,わたしはその声に従わなければいけないのか』と述べたファラオの尊大な返答も意味深長なものであったことがよく分かります。 エジプトでは神殿,彫像,宗教画,著書などの形で大量の考古学的資料が出土したにもかかわらず,エジプト人の実際の宗教上の 信条については,比較的わずかな事実しか知られていません。 宗教上のテキストはまちまちの断片的な状況を示しているにすぎず,一般に,含まれているのと同じほどの,あるいはそれ以上の事実が省かれています。 エジプト人の神々や習慣の性質に関する理解の多くは推論,つまりヘロドトスやプルタルコスなどのギリシャの著述家の提供した資料に基づいています。 しかし,エジプトの歴史全体を通じて地域的な相違が存続し,その結果,互いに矛盾していることの多い,複雑で分かりにくい伝説や神話が生まれたため,信条の統一性がないことは明らかです。 例えば,神ラーにしても75の異なった名や形で知られていました。 幾百もの神々のうち,真に国家的な規模で崇拝されてきたのは,比較的に少数の神々だったようです。 それらの神々のうち最もよく知られていたのは,オシリス,イシス(オシリスの妻),およびホルス(オシリスの息子)から成る三位一体,もしくは三つ組でした。 テーベ(聖書のノ)ではアモン神がたいへん際立っており,やがてアモン・ラーという名のもとに,「神々の王」という称号を与えられました。 ()祭りの時には(),市街を練り歩く神々の行進が見られました。 例えば,神官たちがラーの偶像を運ぶ宗教的な行列が行なわれる時など,人々は必ずその場に居合わせ,そのようにして御利益にあずかることを期待しました。 エジプト人はその場にいるだけで,宗教的な義務を果たしたとみなし,だからラーには引き続き自分たちを繁栄させる義務があると考えました。 人々はただ物質上の祝福や繁栄だけをラーに期待し,霊的なものを求めることなど決してありませんでした。 エジプトの主要な神々とバビロンのそれとの間には数多くの類似点があり,証拠はバビロンが源で,エジプトが受け入れる側,もしくは永続させる側であったことを裏付けています。 多神教を奉じるこの崇拝は,エジプト人に有益な,もしくは人を向上させる影響を及ぼしませんでした。 ブリタニカ百科事典(1959年,第8巻,53ページ)もこう評しています。 「古典的,ならびに現代的な想像により,そのような崇拝には不可思議な神秘的教義,つまりオカルト的な深遠な真理が含まれていると考えられている。 もちろん,アシャンティ族やイボ族[アフリカの諸部族]のように,その崇拝には神秘的教義があった。 実際,入手し得る証拠は,魔術や原始的な迷信がエジプト人の崇拝の基本的な要素であったことを示しています。 ()病気を予防するために宗教的な魔術が用いられました。 心霊術も顕著で,「まじない師」,「霊媒」,「出来事の職業的予告者」などが大勢いました。 (と比較。 )モーセとアロンが神からの力によって奇跡的なこと を行なった時,ファラオの宮廷の神官であった魔術者や呪術者たちも魔術によって,同様の奇跡を行なってみせましたが,ついにはまねることなどできないということを認めざるを得なくなりました。 動物崇拝 迷信に基づくそのような崇拝のために,エジプト人は動物崇拝を含め,極めて低劣な偶像礼拝を習わしにするようになりました。 (と比較。 )たいへん際立っていた神々の多くは,いつも決まったように,体は人間で,頭部が動物や鳥の頭をした姿で表わされました。 例えば,ホルス神はハヤブサの頭をした形で,トトはトキの頭,でなければサルの頭をした形で表わされました。 中には,アピスの雄牛の場合のように,実際に動物に化身していると考えられた神もありました。 生きたアピスの雄牛はオシリス神の化身とみなされて,神殿の中で飼われ,その雄牛が死ぬと,手の込んだ葬式や埋葬が行なわれました。 エジプト人は,ネコ,ヒヒ,ワニ,ジャッカルなど数種の動物や様々な鳥を特定の神々と関連があるゆえに神聖であると信じたため,そのような生物を文字通り幾十万体もミイラにして,特別の墓地に葬ることまでしました。 イスラエルのささげる犠牲を『エジプト人は忌まわしく思う』はずだ,とモーセが主張したのはなぜですか エジプトでは非常に多くの異なった動物が至る所であがめられていたのですから,モーセがファラオに対して,イスラエルを荒野へ行かせて自分たちの犠牲をささげられるようにして欲しいと訴えて,「エジプト人が忌まわしく思うものをその目の前で犠牲としてささげるとすればどうなるでしょうか。 彼らはわたしたちを石打ちにするのではないでしょうか」と述べた言葉には迫力や説得力があったに違いありません。 ()後日,イスラエルが実際にささげた犠牲の大半は,エジプト人にとっては大いに不快なものだったであろうと思われます。 (エジプトでは太陽神ラーが天の雌牛から生まれた子牛として表わされることもあった。 )一方,「」の項で示されているように,エホバはエジプトに対する十の災厄によって「エジプトのすべての神々に対して」裁きを執行し,それらの神々を大いに辱めると共に,ご自分のみ名がエジプトの全地で知られるようにされました。 イスラエル国民は2世紀にわたってエジプトに寄留していた間,そのような偽りの崇拝による汚染を完全には免れることができませんでした。 ()エジプト脱出の旅の初期に示された間違った態度は,かなりの程度,そのことに起因していたに違いありません。 エホバはイスラエル人に,「エジプトの糞像」を投げ捨てるようにと指示なさいましたが,彼らはそうしませんでした。 ()荒野で崇拝用に金の子牛を作ったことも,多分,一部のイスラエル人に影響を及ぼしていたエジプトの動物崇拝を反映するものでしょう。 ()ところが,それから何世紀かたった後,エジプトから戻って来たばかりのヤラベアムが,北のイスラエル王国で王権を得て,崇拝用に二つの金の子牛を造った時,またもや動物崇拝が表面化しました。 ()霊感による聖書のモーセの書き記した部分が,そのようなエジプトの偶像礼拝や迷信による腐敗を全く受けていないということは注目に値します。 霊的ならびに倫理的特質が欠けている 中には,エジプトのある宗教上のテキストにはっきり示されている罪の概念は何であれ,後からセム的な影響を受けた結果ではなかろうかと言う学者もいます。 しかし,罪の告白は常に否定的なものでした。 ブリタニカ百科事典(1959年,第8巻,56ページ)はこう述べています。 「[エジプト人は]告白する時,『わたしには罪があります』とは言わず,『わたしには罪がありません』と言った。 その告白は否定的なものであり,立証責任は裁判官にかかっており,葬祭用のパピルスによれば,裁判官は常に当人に有利な判決を下した。 (と対比。 )古代エジプトの宗教はおもに儀式や呪文を事としたようで,数多くの神々のうちの一柱,もしくは幾柱かの神慮によって特定の願わしい結果を得られるようにするためのものであったようです。 おもに太陽神アトンの崇拝だけが行なわれるようになった,アメンホテプ3世やアメンホテプ4世(アクナトン)というファラオの治世中には,一種の一神教が存在したと言われていますが,その崇拝は真の一神教ではありませんでした。 相変わらずファラオ自身が神として崇拝されていました。 それに,その時期でさえ,エジプトの宗教上のテキストには全く倫理的な特質がなく,太陽神アトンに対する賛歌にしても,生命を与えてくれるその熱に関してその神を賛美するだけのもので,何らかの霊的もしくは倫理的特質に対する賛美や感謝の表現は一つもありません。 ですから,モーセの著作の一神教思想はエジプトの影響に由来しているのではなかろうか,などという言説には全く根拠がありません。 魂の輪廻もしくは転生に対する信仰は,あらゆる人の間に広まっている教理でした。 魂は不滅だと考えられていました。 それでも,魂が戻って来て,時折使えるようにするため,人間の体も保存しておかなければならないと考えられました。 このような信仰のゆえに,エジプト人は自分たちの死者の遺体に香詰め保存の処置を施しました。 ピラミッドは王族の死者のための巨大な住居でした。 故人が将来使うための宝石,衣服,家具,食料品などを含め,生活の必需品やぜいたく品が,亡くなった人を邪悪な霊から守るための呪文やまじないを書いたもの(「死者の書」など)と共に墳墓の中に納められました。 (第1巻,533ページの写真)しかし,それらの呪文は死者を人間の盗掘者から守るものともならず,やがて盗掘者たちは事実上,主要な墳墓をことごとく略奪しました。 ヤコブとヨセフの遺体にも香詰め保存の処置が施されましたが,ヤコブの場合,おもに,彼らの信仰の表われとして約束の地の埋葬所にその遺体を移せるようになるまで保存する目的で行なわれたに違いありません。 とりわけ,ヨセフの場合,その香詰め保存の処置は,敬意と栄誉を表するためにエジプト人が施したのかもしれません。 しかし,もっと最近になって,メソポタミアがいわゆる文明の発祥地であることを示す証拠が増し加わってきました。 エジプトの特定の建築方法,車輪の使用,そして恐らく象形文字の基本原則,またとりわけエジプトの宗教の基本的特色などは,すべてメソポタミアに源を発するものであると考えられています。 これはもちろん,大洪水後に起きた諸民族の離散に関する聖書の記録と一致しています。 最大 のものはクフのピラミッドで,基底部の面積は約5. 3㌶あり,頂上までの高さはおよそ137㍍(現代の40階建てのビルディングに相当する高さ)です。 平均重量2. 3㌧の切り石が230万個使用されたものと計算されています。 切り石は非常に注意深く形が整えられたため,積み合わされる際の誤差はわずか数ミリしかありませんでした。 巨大な神殿も幾つか建立されました。 テーベ(聖書のノ; )のカルナックの神殿は,人間が建てた最大の円柱建造物でした。 割礼は古来,エジプト人の間の普通の慣行であって,聖書は割礼を受けた他の諸民族と共にエジプト人を挙げています。 教育はおもに,神官によって運営された,書記のための学校による教育だったようです。 王室の書記はエジプトの文書の専門家であるほかに,アラム語の楔形文字にも十分精通していました。 西暦前2千年紀の中ごろにはすでに,シリアやパレスチナの属国の支配者たちがアラム語でエジプトの首都と定期的に連絡を取っていました。 エジプトの数学は前述の巨大建造物の偉業を可能にするほど十分に発達しており,幾何や代数の原理に関する,ある程度の知識もあったことは明らかです。 『モーセがエジプト人の知恵をことごとく教授された』のは注目すべきことと言えます。 ()エジプトには偽りの知恵が多かったとはいえ,実際的な価値のある知識も相当利用できました。 政府と法律に関する事柄は,人間の形を取った神とみなされる王もしくはファラオが中心になっていました。 王は従属する者たち,すなわち大臣たちによって,また封建領主たちによって国土を支配しましたが,王室の力が弱くなると,封建領主たちは権力の点で王と張り合うようになりました。 それら領主である首長たちは恐らく,その勢力下にある人々から実際,王同然にみなされたことでしょう。 それで,このことから,聖書がなぜ特定の時代に言及して,「エジプトの王たち[複数]」と述べているかが分かります。 ()エジプト人が南のヌビア・エチオピアを征服した後,その地域は「クシュの王の子」と呼ばれる副王によって治められました。 フェニキアにもエジプトの副王がいたことを示す証拠があります。 エジプトで作られた実際の法典は知られていません。 法律はありましたが,イスラエル人のれんが作りの労働に関するファラオの勅令やイスラエル人の新生児の男の子すべてを溺死させるようにという命令のように,単に勅令で命じられたものにすぎなかったようです。 (と比較。 )税は土地所有者のすべての作物に課せられました。 これはヨセフの時代に始まったように思われます。 その時代に土地は神官の所有地以外はすべてファラオの所有物になったのです。 ()税には産物や家畜の一部を納めることだけでなく,政府の事業のための労役や兵役に就くことも含まれていました。 犯罪に対する処罰には,鼻をそぐこと,鉱山での労役を伴う流刑,むち打ち,投獄,および死刑,それも多くの場合,斬首刑が含まれていました。 結婚の習慣では,一夫多妻婚や兄弟姉妹間の結婚が許されており,この後者の習慣は西暦2世紀に至るまでエジプトの一部の場所で知られていました。 あるファラオたちは自分の姉妹と結婚したことで知られています。 イスラエルがエジプトを出た後に与えられた律法は,「エジプトの地の風習に従ってはならない。 また,……カナンの 地の風習に従ってもならない」と述べて,血族結婚を禁じています。 医学に関する古代エジプト人の知識はしばしば,かなり科学的で,進んだものであったと言われてきました。 解剖学に関する幾らかの知識があったことは明白で,ある種の簡単な外科手術の方法が開発され,目録に載せられていましたが,無知な点が多かったことも明らかにされています。 例えば,エジプトのあるパピルスのテキストは,心臓が血管によって人体のあらゆる部分とつながっていると述べる一方,その同じテキストが血管のことを血液ではなく,空気,水,精液,粘液などを運ぶものであると述べています。 生体の機能について基本的な点が誤解されていただけでなく,医学に関するテキストには魔術や迷信がたくさん盛り込まれており,呪文やまじないが情報の大部分を占めています。 治療薬には有用な薬草や植物が含まれていただけでなく,ハツカネズミの血液,尿,あるいはハエの排せつ物なども薬の成分として処方されました。 それらのものは呪文を唱えて投与すれば,「取り付いている悪霊をうんざりさせて人間の体から追い出すことができると考えられて」いたのです。 (「人類の歴史」,J・ホークスおよびレナード・ウーリー卿共著,1963年,第1巻,695ページ)こうした理解の不足が,象皮病,赤痢,天然痘,腺ペスト,眼炎その他の病気が含まれていたと思われる『エジプトの恐ろしい疾患』の幾つかを助長したのかもしれません。 イスラエルは忠実に従順を保つことにより,そのような疾病にかからないよう守られました。 (と比較。 )エジプト脱出後のイスラエル人に課せられた衛生上の処置は,エジプトのテキストに述べられている慣行の多くと劇的なまでの対照を示しています。 「」を参照。 エジプト人の 職業には一般の職種が含まれており,陶器作り,機織り,金属細工,宝石類や宗教的なお守りの製作その他の技術を要する多くの仕事がありました。 ()エジプトは西暦前2千年紀の半ばごろまでにはすでにガラス製造業の中心地になっていました。 国内の 輸送はナイル川を中心として行なわれました。 北から吹く卓越風は上流へ向かう船の航行を助ける一方,南の方から航行する船は水の流れによって下流へ運ばれました。 アフリカの他の諸国との国際貿易は隊商や紅海を航行する船舶によって行なわれる一方,エジプトの大型のガレー船は積み荷や旅客を地中海東部の多くの港へ運びました。 エジプト人の 衣服は簡素なものでした。 初期の歴史のかなりの期間,男子は前の部分にひだを寄せた,前掛けのようなものをまとっていたに過ぎませんでしたが,後代には上半身に何もまとっていなかったのは低い階級の人々だけでした。 女性は肩ひもの付いた,体にぴったり合った長いシュミーズドレスを着ていました。 そのような服は大抵,上等の亜麻布でできていました。 はだしで過ごすのは習慣で,これがある種の疾患の広まる要因となったのかもしれません。 エジプトの絵画には髪を短く刈り込み,あるいはそり,ひげをきれいにそった男子が描かれています。 ()女性は化粧品を使うのが普通でした。 エジプト人の 家は,貧しい人々の簡素な小屋から,庭園や果樹園や池に囲まれた裕福な人々の広々とした邸宅まで様々でした。 ポテパルはファラオの役人として仕えていたので,その家は立派な邸宅だったと思われます。 () 家具も,簡単な腰掛けから,手の込んだいすや寝いすまで様々でした。 かなりの大きさの家は普通,広々とした中庭を囲んで建てられました。 (と比較。 )練り粉をこねたり,食べ物を料理したりすることは多くの場合,中庭で行なわれました。 大抵のエジプト人の 食物は大麦のパン,野菜,魚(豊富で安価; )および普通の飲み物であった麦酒(ビール)だったようです。 余裕のある人々は食事に様々な肉を加えました。 エジプトの 軍人は,弓矢,槍または小槍,こん棒,斧,短剣など,当時の標準的な武器を使いこなしました。 馬に引かせる兵車は彼らの戦闘で大きな役割を演じました。 初期の時代には,よろいはほとんど使われなかったようですが,後代になって,よく羽根の飾りを付けたかぶとと同様,使われるようになりました。 したがって,エレミヤの預言()は,西暦前7世紀のエジプトの軍隊のことを正確に描写しています。 軍人の多くは民族の中から徴兵された人々で構成されたようです。 後代には,いつも決まったように他の諸国民からの傭兵が用いられました。 歴史 一般の資料に基づくエジプトの歴史,とりわけ初期の歴史は非常に不確かなものです。 アブラハムの滞在 大洪水(西暦前2370-2369年)とその後に起きたバベルでの諸民族の分離後しばらくして,ハム人がエジプトを占有しました。 飢きんのためにアブラハム(アブラム)がカナンを去ってエジプトに下ることを余儀なくされた時(西暦前1943年から西暦前1932年までの間のある時)までに,一人のファラオ(聖書には名を挙げられていない王)のもとで一つの王国が機能していました。 エジプトはよそからの人を受け入れる国だったようで,天幕に住みながら遊牧生活をしていたアブラハムに対して敵がい心を示さなかったように思えます。 それでも,アブラハムは美しい妻のゆえに自分が殺害されるのではないかと考えて恐れました。 その恐れは事実に基づくものだったようで,エジプトの道徳が低かったことを示唆しています。 ()ファラオがサラを自分の家に召し入れたため に被った災厄が効を奏し,結果としてアブラハムはその国を去るよう命ぜられました。 アブラハムはその地を去る際,自分の妻だけでなく,増し加わった所有物をも携えて行きました。 ()アブラハムは恐らくエジプトにとどまっていた間にサラのはしためハガルを得たのでしょう。 ()ハガルはアブラハムの子イシュマエルの母となり(西暦前1932年),イシュマエルは成長した時,母親の故国であるエジプト出身の女性と結婚しました。 ()したがって,イシュマエル人は元々おもにエジプト系の人種で,その宿営地の範囲の関係で彼らはエジプトの境界の近くに宿営することもありました。 二度目の飢きんの際も,再びエジプトは,救済を求めるための場所となりましたが,今回は(アブラハムが亡くなった西暦前1843年からしばらくたった後のことで),エホバはイサクに,その地に移転することを考えないよう指示なさいました。 エジプトにおけるヨセフ その後,アブラハムがエジプトにとう留してから2世紀近くたったころ,ヤコブの年若い息子ヨセフがミディアン・イシュマエル人の隊商に売り渡され,次いでエジプトでファラオの宮廷のある役人に売り渡されました(西暦前1750年)。 ()これはヨセフが後で兄弟たちに説明したように,極度の飢きんの期間中,ヤコブの家族を生き長らえさせる道を備えるため神がお許しになったことでした。 ()ヨセフの生涯中に起きた主要な出来事に関する報告にはエジプトの状況がよく示されており,その描写が正確であることは否定できません。 (「」1項を参照。 )役人の称号,習慣,衣服,魔術の使用その他,述べられている多くの詳細な事柄は,エジプトの記念碑,絵画,著作から得られる資料により確証できます。 例えば,ヨセフがエジプトの副王にされた任官式の手順は(),エジプトの碑文や壁画に描かれている手順と同じです。 ヨセフが自分の兄弟たちのために用意した食事の際に示されたように,エジプト人はヘブライ人と食事を共にすることを嫌いましたが,これは宗教的,もしくは人種的誇りや偏見のためだったかもしれず,あるいは羊飼いに対する嫌悪感が関係していたのかもしれません。 ()さらに,この後者の態度は単に,羊飼いが最下層に近い階級であったと思われるエジプトの排他的階級制度のためだったとも十分考えられます。 あるいは,耕作できる土地が限られていたので,羊の群れのための牧草地を求めるそれらの人々に対する強い嫌悪感があったのかもしれません。 しかし,メリル・ウンガーが注解しているように(「考古学と旧約聖書」,1964年,134ページ),「残念なことであるが,[この時期]はエジプトにおける最もあいまいな時期の一つであり,ヒクソスによる征服に関する理解は極めて不完全なもの」です。 一部の学者はヒクソス王朝を治世200年間に及んだ「第13から17王朝」としていますが,他の学者は1世紀半,もしくはただ1世紀だけ続いた「第15および16王朝」に限定しています。 ヒクソスという名称は「牧者王」という意味に解釈する人もいれば,「異国の支配者」という意味に解釈している人もいます。 その人種や国籍に関する推測はさらに様々で,コーカサスからの,または中央アジアのインド・ヨーロッパ人,ヒッタイト人,シリア・パレスチナの支配者(カナン人,もしくはアモリ人),アラブの諸部族など,いずれも推測の域を出ません。 考古学者の中には,「ヒクソスによる[エジプト]征服」を,快速の兵車を使った北方の遊牧民族によるパレスチナおよびエジプト全土の制圧として説明する人もいれば,徐々に進められた征服,すなわち遊牧民もしくは半遊牧民の移住により徐々に行なわれた侵入と呼ぶ人もいます。 その遊牧民はエジプトを少しずつゆっくり支配下に入れたか,あるいは素早いクーデターによって自ら既存の政府の長になったかのいずれかであるとされています。 考古学者ジャケッタ・ホークスは「過去の世界」という本(第5部,1963年,444ページ)の中で,こう述べています。 「ヒクソスの支配者たちは……征服を進めていたアジア系遊牧民による侵攻があったことを表わしているとはもはや考えられていない。 その名称は高地の支配者という意味であるように思われる。 彼らは交易その他の平和目的で,ずっと前からエジプトに来ていた,セム人の流浪集団であった」。 この見解は現在の通説を代表しているかもしれませんが,そのような「流浪集団」がどのようにしてエジプトの地を占拠できたのかという難問が依然として残ります。 この国はその時期の前の「第12王朝」の時代に最盛期を迎えていたと考えられているのですから,特にそう言えます。 アメリカーナ百科事典(1956年,第14巻,595ページ)はこう述べています。 「古代のどの著述家によるものにせよ,彼ら[ヒクソス]に関する唯一の詳細な記述は,ヨセフスがアピオンに対する答弁の中で引き合いに出している,マネトーの失われた著作の中の当てにならないある章句である」。 ヨセフスがマネトーの述べた言葉としているものが,「ヒクソス」という名称の出所なのです。 興味深いことに,ヨセフスはマネトーの言葉を一語一語引用したと唱えており,マネトーの記述をヒクソスとイスラエル人とを直接関連づけるものとして示しています。 ヨセフスはそのような関連づけを受け入れているように思われますが,その記述の詳細な点の多くに対して激しく反論しています。 彼はヒクソスを「王なる牧者」よりも,「とりこの牧者」と訳すのを好んでいるようです。 ヨセフスによると,マネトーは ヒクソスのことを,戦わずにエジプトを征服し,諸都市や「神々の神殿」を破壊し,殺りくと大破壊を引き起こした者として示しています。 彼らはデルタ地帯に定住したと書かれています。 最後に,エジプト人が立ち上がり,48万人の兵を挙げて,長期に及ぶ,恐ろしい戦争を行ない,ヒクソスをその主要な都市アヴァリスで攻囲したが,その後,不思議なことに,彼らが家族を連れ,持ち物を携えて,危害を被ることなく国を去ってよいという合意に達し,それから彼らはユダヤへ行って,エルサレムを建てたと言われています。 同時代の著作の中では,それら支配者の名前の前に「善良な神」,「レーの子」,あるいはヒク・コスウェト,すなわち「異国の地の支配者」などの称号が付されていました。 「ヒクソス」という語はこの後者の称号に由来しているようです。 彼らの治世の直後の時代のエジプトの文書では,彼らのことがアジア人と呼ばれています。 エジプト史のこの時期に関して,C・E・ド・フリースはこう述べています。 「一部の学者は一般の歴史と聖書中の資料との関連性を示そうとして,ヒクソスがエジプトから放逐されたことをイスラエルのエジプト脱出と同一視しようと試みたが,年代記述からして,そのように同定することはできず,また他の種々の要素もその仮説を支持するものとはなっていない。 ……ヒクソスの起源は定かではない。 ヨセフが権力の座に高められ,そのためにイスラエルが益を受けたのは神慮による事柄でしたから,友好的な「牧者王」というような別の理由づけを求める必要はありません。 ()しかし,実際に「ヒクソス」という概念の土台となったマネトーの記述は,わい曲された伝承,つまりイスラエル人がエジプトに寄留していた期間にその地で起きた事柄をうまく言い抜けようと腐心した初期のエジプト人の作り話から発展した伝承を一つの話としてまとめたものにすぎないのかもしれません。 エジプトでは中東の他の多くの国の場合と同様,歴史を記録する仕事が神官職と不可分の関係にあり,書記は神官の指導のもとで訓練されたことを決して忘れてはなりません。 エホバ神がエジプトとその民にもたらした大災害をエジプトの神々が全く阻止できなかった理由を説明する何らかの宣伝用の話が作り上げられなかったとしたら,それこそ極めて異常なことでしょう。 歴史の記録には,それも近年の歴史の記録にさえ,そのような宣伝機関が事実をあまりにも甚だしくわい曲したため,抑圧された人々が抑圧者として示され,罪のない被害者が危険で残忍な侵略者として示されている事例は少なくありません。 マネトーの記述(イスラエルのエジプト脱出の時から1,000年以上も後代のもの)は,ヨセフスにより,ある程度正確に保存されたとしても,もしかしたらエジプトにおけるイスラエルに関する聖書中の真実の記述の基本的な要素を説明するものとしてエジプト人により代々受け継がれた,ゆがめられた伝承を一つの話としてまとめたものなのかもしれません。 イスラエルの隷従状態 聖書はイスラエル人を虐げるようになったファラオの名前も(),モーセとアロンがその面前に出頭し,次いでエジプト脱出が行なわれたその当時のファラオの名前も挙げていないため(),また,これらの出来事がエジプトの記録から故意に省かれたため,あるいはその記録が破棄されたため,それらの出来事をどれか特定の王朝に当てはめることも,一般の歴史のだれか特定のファラオの治世に当てはめることもできません。 イスラエル人の労働者によりピトムやラアムセスという都市が建てられたことに言及した箇所を根拠にして,圧制を行なったファラオはラムセス(ラメセス)2世(「第19王朝」のファラオ)ではなかろうかとよく言われています。 ()それらの都市はラムセス2世の治世中に建てられたとされています。 メリル・ウンガーは「考古学と旧約聖書」(149ページ)の中でこう注解しています。 「しかし,前任者たちの成し遂げた偉業を自分の功績とするラアムセス2世の悪名高い習慣に照らして見るとき,これらの場所は単に彼が再建した,あるいは拡張したに過ぎないと考えて,まず間違いない」。 実際,「ラメセス」という名称は,すでにヨセフの時代には,ある地域全体を指して用いられていたように思われます。 イスラエル国民はモーセによる神の救出の業により「奴隷の家」から,また「鉄の炉」から解放されました。 聖書の筆者たちはエジプトのことをその後もそのように呼びました。 ()それから 40年たった後,イスラエルはカナンの征服を開始しました。 聖書中のこの出来事を,カイロの南約270㌔の所にあるナイル川沿いのテル・エル・アマルナで見つかった,いわゆるアマルナ文書に述べられている状況と結び付けようとする努力が払われてきました。 それらの手紙はハビル人が単なる襲撃者であったことを示しています。 それら襲撃者たちは都市間もしくは地域間の抗争において時にはカナン人の幾人かの支配者と同盟を結んでいました。 ハビル人からの脅威にさらされた町々の中には,イスラエル人の攻撃範囲から遠く離れていた北レバノンのビュブロスも入っていました。 また,それらの手紙は,イスラエル人がエジプト脱出後に行なったカナン征服に関連した主要な戦闘や勝利に匹敵するような状況を提示していません。 イスラエル国民にとってエジプトに寄留したことは,同国民の記憶にぬぐい去れないほど深く刻み込まれ,また彼らがその土地から奇跡的に解放されたことは,エホバの神性の際立った証拠として定期的に思い起こされました。 ()そういうわけで,「わたしは,エジプトの地以来あなたの神となったエホバである」という表現があるのです。 (と比較。 )彼らにとってバビロンからの解放がエホバの救出力を示す一層の証拠となるまでは,ただ一つの状況もしくは出来事で,その奇跡的な解放をしのぐものはほかにありませんでした。 ()エジプトでの彼らの経験は彼らに与えられた律法の中に書き記され(),過ぎ越しの祭りの基礎となり(),外人居留者や(),身を売って奴隷になった貧しい人々を扱う際の指針となり(),また聖なる所での奉仕のためにレビの部族を選んで神聖なものとするための法的な基盤となりました。 ()イスラエルがエジプトで外人居留者となったことに基づき,一定の要求を満たしたエジプト人はイスラエルの会衆に受け入れられました。 ()カナンの諸王国や近隣の国の諸民族は,エジプトに対して実証された神の力に関するうわさを聞いたために畏怖と恐怖の念に打たれ,それによってイスラエルによる征服のための道が整えられ(),その出来事は以来幾世紀にもわたって思い起こされました。 ()イスラエル国民はすべて,その全歴史を通じて,自分たちの歌の中でそれらの出来事について歌いました。 イスラエルによるカナン征服の後 ラムセス2世の子ファラオ・メルネプタハの治世(「第19王朝」後半)になって初めて,エジプト人が直接イスラエルに言及した例が出て来ます。 事実,それは一民族としてのイスラエルに直接言及したものとしては,これまでに古代エジプトの記録の中に見いだされた唯一の例です。 メルネプタハは戦勝記念碑の中で,カナンの様々な都市を撃ち破ったことを誇り,次いで,「イスラエルは荒廃し,その胤はいない」と主張しています。 これは明らかに根拠のない自慢話にすぎませんが,イスラエルが当時カナンに定着していたことを示す証拠にはなっているように思われます。 もしそうであれば,またそのテキストの読み方が正確であれば,イスラエル人によるカナン征服(西暦前1473年)は,アクナトンの治世(この王にあててアマルナ書簡の相当の部分が書かれた)と,メルネプタハの治世との間(エジプト学者はこれらのファラオの治世をそれぞれ「第18および19王朝」に当てている)のある時期に起きたことになるようです。 裁き人の時代,あるいはサウルやダビデの治世中にイスラエルがエジプトと接触した記録は,ダビデの戦士の一人と,ある「異常な大きさの」エジプト人との間の戦いが指摘されているほかにはありません。 ()これら二国間の関係は,ソロモンの治世(西暦前1037-998年)のころには,ソロモンがファラオと姻戚関係を結んで,その娘を妻としてめとることができるほどになっていました。 ()名前の明らかにされていないそのファラオは,娘に婚礼のための別れの贈り物もしくは持参の品としてゲゼルを与えていますが,一体いつその町を征服していたのかについては述べられていません。 ()ソロモンはまた,エジプトとの間で商業活動を営み,馬やエジプト製の兵車の取り引きを行ないました。 しかし,エジプトはエルサレムの王たちの何人かの敵の避難所でもありました。 ダビデがエドムを荒廃させた後,エドム人ハダドはエジプトへ逃れました。 ハダドはセム系の人でしたが,ファラオから厚遇され,家や食物や土地を与えられました。 彼は王族の人と結婚し,その子ゲヌバトはファラオの息子の一人として扱われました。 ()後に,ソロモンの死後,北のイスラエル王国の王となったヤラベアムも,シシャクの治世中にしばらくエジプトに避難しました。 シシャク(エジプトの記録ではシェションク1世として知られている)は,東部デルタ地帯のブバスティスに首都を持つ,リビア人のファラオの王朝(「第22王朝」)を創設していました。 ソロモンの子レハベアムの治世の第5年(西暦前993年)に,シシャクは,リビア人やエチオピア人を含め, 兵車や騎兵隊や歩兵から成る強力な軍勢を率いてユダに侵入しました。 多くの都市を攻略し,エルサレムを脅かすことさえしました。 エルサレムはエホバの憐れみによって荒廃を免れましたが,同市のばく大な富がシシャクの手に渡されました。 ()カルナックの神殿の壁にある浮き彫りにはシシャクの遠征の様子が描写されており,イスラエルとユダの多くの都市の名称が攻略された都市として列挙されています。 エチオピア人ゼラハは,エチオピア人とリビア人の100万人の部隊を率いてユダのアサ王を攻めました。 (西暦前967年)多分,エジプトから進軍したものと思われます。 エルサレム南西のツェファタの渓谷に集結したその軍勢は,完全な敗北を喫しました。 ユダとイスラエルはその後2世紀間,エジプトから攻撃されることなく小康を保ちました。 その期間中,エジプト国内では同じ時期に幾つかの王朝が支配し,相当の動乱が起きたようです。 一方では,アッシリアが主要な世界強国として前面に出て来ました。 イスラエルの十部族王国の最後の王ホシェア(西暦前758年ごろ-740年)は,アッシリアの従属者となりましたが,その後,エジプトの王ソと陰謀を企ててアッシリアのくびきを砕こうとしました。 その努力は失敗し,やがてイスラエル人の北王国はアッシリアの手に落ちました。 このころまでにエジプトはヌビア・エチオピア人分子による支配を相当受けていたようで,「第25王朝」はエチオピア人の王朝として類別されています。 アッシリアの王セナケリブの高官で,大声で話すラブシャケはエルサレムの都の人々に,助けを求めてエジプトに頼るのは「砕かれた葦」に頼るようなものだ,と告げました。 ()この時(西暦前732年),進軍してカナンに入り,アッシリアの注意と軍勢を一時的に他の方面に向かわせた,エチオピアの王ティルハカは一般に,エジプトの支配者となったエチオピア人,ファラオ・タハルカと関係づけられています。 ()このことは,エホバが『エジプトのナイルの運河の果てにいるはえと,アッシリアの地にいる蜜ばちのために口笛を吹かれる』結果,二つの強国がユダの地で衝突し,その地は二重の圧力を受けるようになると述べたイザヤの初期の預言()により確証されているように思われます。 フランツ・デリッチはこう述べています。 「その表象も二つの国の性質をよく示している。 イザヤはエジプトに対する宣告の中で,西暦前8世紀後半から7世紀初めごろまでのエジプトにおける不穏な事態を予告しているようです。 ()イザヤは,エジプトで「都市は都市に,王国は王国に敵して」戦うために生じる内乱や崩壊を描写しています。 ()現代の歴史家は,当時,幾つかの王朝が同じ時期に国内の別々の地区で支配していたことを示す証拠を見いだしています。 エジプトが自慢していた「知恵」も,その『無価値な神々やまじない師』も,この国を「無情な主人の手」に引き渡されないよう守ることはできませんでした。 アッシリア人の侵入 アッシリア人の王エサル・ハドン(ユダのマナセ王[西暦前716-662年]と同時代の人物)はエジプトに侵入し,下エジプトのメンフィスを征服して多くの人を流刑に処しました。 当時,支配していたファラオは,やはりタハルカ(ティルハカ)だったと思われます。 アッシリア最後の王アシュルバニパルは襲撃を再開し,上エジプトの都市テーベ(聖書のノ・アモン)を略奪しました。 そこにはエジプトの神殿財宝の最大のものがありました。 この度もまた,聖書はエチオピア,リビアその他のアフリカ系分子が関係していたことを示しています。 アッシリア人の守備隊は後にエジプトから撤退させられ,エジプトは初期のころの繁栄と力を幾らか取り戻すようになりました。 アッシリアがメディア人とバビロニア人の手に落ちた時,エジプトはアッシリアの王を助けるために上って行けるほど十分の力(傭兵部隊に支えられた力)を回復していました。 ファラオ・ネコ(2世)はエジプト人の軍勢を率いて進みましたが,その途中,メギドでヨシヤ王のユダの軍隊と対決することになり,不本意ながら交戦を余儀なくされました。 そして,ユダを撃ち破ってヨシヤの死をもたらしました。 ()それから3か月後(西暦前628年),ネコは,ヨシヤの子で後継者だったエホアハズをユダの王座から退かせ,代わりにその兄弟エリヤキム(エホヤキムと改名)を立て,エホアハズをとりこにしてエジプトへ連行しました。 (と比較。 )今や,ユダはエジプトの進貢国となり,初回に総額およそ104万6,000㌦相当を支払いました。 預言者ウリヤがエジプトへ逃げたものの無駄に終わったのはこの時期のことでした。 ネブカドネザルによりもたらされた敗北 しかし,シリアやパレスチナに再びエジプト人の支配を確立しようとしたエジプトの企ては,つかの間のものでした。 エレミヤがすでに告げ知らせていたエホバの預言()によれば,エジプトは敗北の苦杯を飲まされる運命にありました。 エジプトの没落は,西暦前625年にユーフラテス河畔のカルケミシュで皇太子ネブカドネザル配下のバビロニア人によって決定的な敗北を被った時に始まりました。 この出来事は,ならびにバビロニア年代記の中で説明されています。 今やバビロンの王となったネブカドネザルは,次にシリアとパレスチナを奪い,ユダはバビロンの属国となりまし た。 ()エジプトはアジアの強国としてとどまろうとする最後の努力を試みました。 ゼデキヤ王が西暦前609-607年にバビロンに対し謀反を起こして軍事的な支持を要請したのに答えて,エジプトからファラオの軍勢(彼の名は聖書の中で言及されていない)がやって来ました。 エジプトの部隊はバビロニア人による攻囲を一時的に解かせただけで,撤退を余儀なくされ,エルサレムは滅ぼされるままにされました。 エレミヤによる断固たる警告にもかかわらず(),ユダの住民の残りの者は聖域としてのエジプトに逃げました。 そして,すでにその地にいたユダヤ人に加わったものと思われます。 ()彼らが住みついた場所として特に指摘されているのは,デルタ地帯の要塞都市だったと思われるタフパヌヘス(),ミグドル(),および下エジプトの初期の首都メンフィスと同一とみなされているノフです。 ()こうして,それら避難民により,今やエジプトで「カナンの言語」(ヘブライ語であろうと思われる)が話されるようになりました。 ()愚かなことに,彼らはユダに対してエホバの裁きをもたらす原因となった,まさにその偶像礼拝の慣行をエジプトで再び行ない始めました。 ()しかし,ネブカドネザルがエジプトに進軍し,その地を征服した時,エホバの預言はイスラエル人の避難民にそのとおり成就しました。 エジプトへの遠征について指摘している,ネブカドネザルの第37年(西暦前588年)のものと認められるバビロニアのテキストが一つ見つかっています。 それが最初の征服について述べたものか,あるいは単にその後の軍事行動に関するものなのかは分かりません。 いずれにしても,ネブカドネザルは,神の民の反対者であったティルスに対するエホバの裁きを執行することになった軍事上の奉仕に対する報酬としてエジプトの富を受け取りました。 では,40年間続くことになっていたエジプトの荒廃が予告されています。 その荒廃はネブカドネザルによるエジプト征服後に起きたのかもしれません。 幾つかの注解書は,ホフラの後継者アマシス(アハモセ)2世の治世を40年余にわたる非常に繁栄した時期として指摘していますが,その注解は主として,100年以上も後にエジプトを訪れたヘロドトスの証言に基づいたものです。 F・C・クックの著わした聖書の「注解」は,ヘロドトスがネブカドネザルのエジプト攻撃に言及してさえいないことを指摘した後,こう述べています。 「ヘロドトスはエジプトで見聞きした事柄をすべて忠実に記録してはいるが,過去の歴史に関する情報をエジプト人の神官から受けていたことは周知の通りである。 彼は神官の話を盲目的に信じて受け入れたのである。 ……アプリエス[ホフラ]とアマシスに関する[ヘロドトスの]話全体は,一貫性のない伝説的な事柄が余りにも混じり合っているため,信ぴょう性のある歴史として受け入れることをためらうのはもっともなことであろう。 異国のくびきに服させられたという国家的に不名誉なことを神官たちが覆い隠そうとしても,それは決して不思議なことではない」。 (132ページのB項に注目。 )したがって,この預言の成就に関して,一般の歴史が明確な証拠を全く提供していなくても,聖書の記録が正確であることを確信して差し支えないでしょう。 ペルシャ人の支配下で 後にエジプトは,台頭してきた強国メディア-ペルシャに敵対してバビロンを支持しました。 しかし,エジプトは西暦前525年までにはキュロス大王の子カンビュセス2世に服従させられ,こうしてペルシャ帝国の支配下に置かれました。 ()多くのユダヤ人が故国に戻るためにエジプトを去ったことは間違いありませんが,(),エジプトにとどまった人々もいました。 ですから,カイロの南約690㌔の所にあるアスワン付近のナイル川の島エレファンティン(エジプト語,エブ)にはユダヤ人居留地がありました。 発見された貴重なパピルス写本は,エズラやネヘミヤがエルサレムで活動していたのと大体同じ時代である西暦前5世紀ごろ,その地方に広く見られた状況を明らかにしています。 アラム語で書かれたそれらの文書には,サマリアのサンバラテや(),大祭司ヨハナン()の名前が含まれています。 興味深いのは,居留民は「無酵母パンの祭り」()を祝うようにという,ダリウス2世の治世中(西暦前423-405年)に出された公式の命令です。 異教の崇拝が確かに浸透していたことを示す,かなり多くの証拠もあるとはいえ,エホバ(もしくは,ヤハウェ。 と比較)というみ名の一つの形である,ヤーフーという名がしばしば使われていたことも注目に値します。 ギリシャおよびローマの支配下で エジプトは西暦前332年にアレクサンドロス大王により征服される時までペルシャの支配下にありました。 アレクサンドロスによる征服により,エジプトはペルシャのくびきから解放されましたが,自国のファラオによる支配はそれで永久に終わりを告げたと考えられています。 力のあったエジプトは実際,「地位の低い王国」になってしまいました。 アレクサンドロスの治世中にアレクサンドリア市が創設され,その死後,この国はプトレマイオス朝により支配されました。 西暦前312年,プトレマイオス1世はエルサレムを攻略し,ユダは西暦前198年までプトレマイオス朝のエジプト の一属州となりました。 その後,エジプトはシリアのセレウコス帝国と長期間にわたって抗争し,シリアの王アンティオコス3世によりプトレマイオス5世の軍隊が撃ち破られるに及んで,ついにパレスチナに対する支配権を失いました。 それ以後,エジプトはしだいにローマの勢力下に置かれるようになりました。 西暦前31年のアクティウムの決戦で,クレオパトラは彼女のローマ人の愛人マルクス・アントニウスの艦隊から離れ,アントニウスはユリウス・カエサルのおいの子,オクタウィウスに敗れました。 オクタウィウスは西暦前30年にエジプト征服に着手し,エジプトはローマの一属州になりました。 ヘロデが残忍な布告を出したため,ヨセフとマリアは幼子イエスを連れて,このローマの属州へ逃げ,ヘロデの死後,戻って来たので,「エジプトからわたしは自分の子を呼び出した」というホセアの言葉が成就しました。 エルサレムの軍司令官はパウロのことを暴動を起こした「エジプト人」と混同しましたが,その人物はもしかしたら,ヨセフスが指摘しているのと同一人物かもしれません。 (ユダヤ戦記,II,254-263 [xiii,3-5])彼が起こした反乱はネロの治世中,およびフェリクスがユダヤの行政長官であった時のことだと述べられており,その状況はの記述と合致します。 エルサレムは西暦70年にローマ人により二度目の滅びを被り,その結果,がさらに成就し,生き残った多数のユダヤ人はエジプトへ奴隷として送られました。 預言的,ならびに象徴的な意味での他の言及箇所 エジプトに関する多くの言及箇所は,象徴的な言葉遣いで述べられた裁きの宣告の言葉の中にあります。 ()イスラエル人にとって,エジプトは政治同盟によって得られる軍事的な強さや力を表わしていたので,エジプトに依存することは,エホバの代わりに,人間の力に依存することを象徴的に表わすものとなりました。 (と比較。 )とはいえ,多くの有罪宣告の言葉と共に,「エジプト」から出て来る大勢の人が,『わたしの民であるエジプトが祝福されるように』と言われるほどエホバを知るようになるという約束もありました。 エジプトは象徴的な「南の王」の領域の一部として指摘されています。 ()では,主イエス・キリストが杭につけられた場所である,不忠実なエルサレムが,「霊的な意味で」エジプトと呼ばれています。 それは不忠実なエルサレムがユダヤ人を宗教的な意味で虐げ,奴隷状態に陥らせたことを考えれば,もっともなことです。 また,最初の過ぎ越しの犠牲はエジプトで打ち殺されましたが,対型的な過ぎ越しの子羊イエス・キリストはエルサレムで殺されました。 発見された貴重なパピルス写本 エジプトの土は大変乾燥しているため,もっと湿気のある状態だったなら損なわれていたと思われるパピルス写本が存続できました。 19世紀後半以来,エジプトで多数のパピルス写本が発見され,その中にはチェスター・ビーティー・コレクションなど,聖書の相当数のパピルス写本が含まれています。 それらの写本は,聖書の原本と後代の獣皮紙<ヴェラム>写本との間をつなぐ,とりわけ重要な写本です。 [309ページの図版] ファラオがアモンにより守られていることを表わした彫像 [310ページの図版] エジプトの家畜を襲った疫病というエホバからの災厄は,雄牛で表わされた彼らのアピス神を辱めました [311ページの図版] 巨大なスフィンクスはギザのピラミッド群の前でその番をしているように見えます [312ページの図版] すべてラムセス2世をたたえるために造られたアブ・シンベルの巨大な彫像.

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2019年のF1放送は「スピード感やサウンドの改善」「レース戦略に関する情報の表示」など変化がありそう|GoAuto

黒い砂漠 労役の苦情

一五八八年の新版『随想録』の扉には、その標題の下に第三巻一冊と既刊二冊への増補六〇〇項が増加されたと印刷されているが、この書きおろしの第三巻は、結局、一五八二年版の余白に書き込まれた前記増補分の延長ないし溢流とも言うべきもので、そこに特に新しい提論はないようである。 けれどもやはりそこには、進歩とか特徴とか言うべきものが確かに認められる。 まったく著者モンテーニュは、今や紋章だの勲章だの、王室伺候だとか市長だとかいう肩書などを、いつの間にかきれいさっぱりと脱ぎ捨てて、フランスのジャンティヨムからソクラテス流の世界の市民になり変っている。 一五八八年版の表紙には肩書きが取れてただモンターニュの領主と書かれている。 そして彼はその書斎における読書執筆と彼のいわゆる 夢想とをいよいよ自己の本領と自覚し、著作者エッセイストたることに徹している。 従来はいささか消極的であった自己弁護も、今や全く積極的な自己表出となり、大胆に自己の根本思想を布衍し解明することに没頭している。 その上さらに、自己を読者に知らせることから、読者をして読者自らを知らしめ、読者自らをして世界や宇宙に眼を注がしめることに、その重点を移してゆく。 つまりモンテーニュの 自己 ( モワ )は、この時、彼自らにとっても読者にとっても、己れ自らと世界とを知らせる、いわば顕微鏡とも望遠鏡ともなる光学機械、モラリスト・エッセイストという彼の本職にとって最も大切な道具となるのである。 三の六「馬車について」の章なり三の九「すべて空なること」の章なりは、いずれも一の二十三、二十七、三十一、二の二十二章の延長であるとしても、何とそれは堂々として確信に満ちていることであろう。 こういうところに第三巻時代のモンテーニュの面影が見られる。 モンテーニュがペストに追われて城館をあとに、家族を引き連れて諸所を放浪したのは、従来一五八五年秋冬の頃と推定されていたが、このモンテーニュ一生の中の最も苦難の多かった時期は、実際には一五八六年九月から八七年三月頃のことであったと思われる。 この時期のことについては後出第十二章の始めの解説にゆずる。 また巻末年表参照。 とにかくモンテーニュは、市長をやめてから一五八八年まで、この七カ月ばかりの時期をのぞけば、前後二十五カ月ばかりの間、比較的平穏に執筆の時間をもったわけであるが、一五八四年に王弟アンジュー公が死んで以来、思いもかけずプロテスタント側の最高指導者であるアンリ・ド・ナヴァールが王位継承者になったので、フランスの政界はいよいよ紛糾した。 特に西南部のボルドー方面は内乱がますます激しくなったから、モンテーニュは退職したとはいえ全然政治問題に無関係ではありえず、国王アンリ三世と、神聖同盟派のアンリ・ド・ギュイズと、かねて関係の深いアンリ・ド・ナヴァールと、いわゆる三人のアンリの間を奔走して、その調停に誠意を傾けた。 そういう経験がこの章および第三巻第十章において、モンテーニュに「個人は混乱した社会の唯中でどのようにその良心を守りとおすことができるか」という問題を論じさせたのである。 すなわちこの章では、モンテーニュも一方ではマキアヴェリと同様に政治と道徳とは別ものであると考えながら、なおかつ誠意信実はいかなる乱世においてもその徳を発揮するものであるとし、政治においても道徳を無視してはならないと言っている。 しかし何と言っても政治組織、政治生活の中には不徳の介在は避けがたいものであるから、モンテーニュ自らはせいぜい調停者として働くくらいにとどまり、あまり政治の世界に深入りしたがらない。 政治はもっと大胆なふとっぱらの人間に委せ、自分はやはりあくまでも自分の良心を清潔に保ちたいと思う。 だがこの告白は必ずしも彼自らに厳守されない。 彼もまた自分の良心なり節操なりをけがさない範囲においては、相当積極的に政治的活動をする。 もちろん第三巻においてもモンテーニュの個人主義は弱まるどころか、益々自分の体験を語り、自分を描き、自分を大切にするように説いているが(三の十)、一般社会に関する問題、政治の問題にふれることが、前二巻に比して著しく多くなっている。 モンテーニュは自分について語ることがますます詳しくなるが、同時に人類一般に働きかけようとの意志も、益々強く、明瞭になる。 (b)誰でもばかを言うことは免れない。 困るのはそれを念入りにやられることである。 (テレンティウス) だがわたしはちがう。 わたしのはいかにも愚論らしくうっかり唇をもれるのである。 だからはなはだ始末がいい。 少しでも困ればあっさり捨てる。 つまりわたしは、愚論は愚論として買いもし売りもするのである。 わたしが紙に向って語るのは、出あいがしらの人に向って語るのと同じことだ。 それが嘘でないことは、次に読まれるとおりである。 誰にとっても、不信不実は憎むべきものであるに違いない。 皇帝ティベリウスはあれほどの損をしてまで、それをしりぞけたではないか。 ドイツから、「もしご異議さえなければ、アリミニウスを毒殺してさしあげよう」といってよこしたとき(これはローマ人のもった最大の強敵で、かつてウァルスの率いるローマ軍をひどい目にあわせたことがあり、ただこの人ひとりのために、ローマの支配はこの地方においてその発展を妨げられていたのである)、彼はこう答えた。 「ローマの民は、敵に 復讐 ( ふくしゅう )するとき、いつもまっこう正面からぶつかった。 計略によってこっそりやるようなことはしたことがない」と。 彼は実利をすてて誠実を取ったのである。 「あれは食わせ者だよ」と言われれば、なるほどそれはそうかも知れない。 彼のような地位にある人たちには、ああしたことは少しも珍しいことではないのだ。 だが徳の告白は、これを憎む者の口からもれたものであっても、やはり重視すべきだと思う。 それは真実が、さしもの彼にああいう告白をさせたのであるから。 またこの告白を本気で実行する気はなかったにしても、これによって自分の表面だけでも掩い飾ろうとしたのであるから。 我々の組織は、公私いずれの場合においても、つねに不完全に満ち満ちている。 けれども自然のうちには、何一つとして無用なものはない。 無用なことさえも無用ではない。 この宇宙に忍びこんだもので、そこに適当な席を占めていないものは、ただの一つもないのである *。 我々の存在は、もろもろの病的特質で固められている。 野心・嫉妬・そねみ・復讐・迷信・絶望なども、まったくそれが自然にかなっているかのような顔で我々のうちに宿っている。 そうした有様は動物の中にもそっくり認められるくらいである。 残酷というきわめて不自然な不徳までも授かりものなのだ。 まったく同情の気持を十分にもっていながら、我々は他人の苦悩を見ると、心の底に、何とも言いようのない・甘いような苦いような・意地の悪い快感を覚えるのである。 子供たちまでがそれを感ずるのである。 *「 桂 ( にくけい )は 食 ( くら )うべきが故に之を 伐 ( き )り、 漆 ( うるし )は用うべきが故に之を 割 ( さ )く。 人は皆有用の用を知りて無用の用を知ること 莫 ( な )し」(『荘子』「人間世篇」最終の説話)。 これらの諸特質の種子を人間の中から取り除くならば、我々の生命の根本的性質をも破壊することになろう。 同様にどんな国家にも、たんに下賤であるだけでなく不徳であって、なおかつ必要とされる職務がある。 不徳はそこにそのところを与えられ、我々相互のつながりに役立っている。 ちょうど毒が我々の健康の保全に用いられるようなものである。 それらの職務が我々に必要なものであり、またそれらが一般にも必要であるということから、それら本来の悪い特質が相殺され、従って許されるものになるとすれば、そういう役目は最も気の強い・最も物におじない・市民たちに、大いにやってもらうべきである。 彼らは自国の安泰のために自分の生命をなげうったあの古人のように、よろこんで自分の名誉と良心とを犠牲にする。 だが、我々みたいな意気地なしは、もっと容易な・危険の少ない・役にまわろう。 公益のためには、裏切ることも嘘をつくことも、 (c)また人殺しも、 (b)必要である。 だがこういうお役目は、我々よりも柔順で融通のきく人たちの方にお願いしよう。 実にわたしは、裁判官たちが詐術を用いたり、恩恵や赦免をいつわり約したりして、罪人にその犯行を白状させようとするのを見て、すなわち彼らまでが詐欺や破廉恥をあえてするのを見て、しばしば憤りに堪えなかった。 むしろそれとはちがった・わたし流儀の・手段を用いる方が、正義〔裁判〕のためにも、よくこの方法を用いたあのプラトンのためにも、よいであろう。 あれは 邪 ( よこしま )な正義〔裁判〕である。 正義は、他から傷つけられることよりも、こうやって自分で自分を傷つけることの方が多いと思う。 わたしはつい先頃、ある人に向ってこう答えた。 「わたしは一個人のために帝王を裏切ることはとてもできない。 帝王のために一個人を裏切ることさえ辛いのである。 わたしは人を欺くことがきらいなばかりではない。 人にまちがって買いかぶられることさえ、きらいなのである。 嘘やまちがいの材料や機会にされることさえ、いやなのである *」と。 * モンテーニュはどんな目的(正義・裁判)のためであろうと、誰(帝王や主君)のためであろうと、人が詐欺的手段を用いることをゆるさない。 自ら裏切りや詐欺を働かないことはもちろんだが、自分が他人の詐欺や裏切りの機縁になったり嘘やまちがいの材料になったりするのさえ悲しいのである。 だから彼は人から買いかぶられることさえきらう。 わたしはこんにち我々を四分五裂の状態においている諸党諸派の間に立って、いささか王侯がた *の調停をしなければならなかったときも、彼らに勘ちがいをされたり買いかぶられたりしないように、つとめて用心をした。 その道の人々は、できるだけ自分を掩いかくす。 そしてできるだけ中立であるかのような、できるだけ同じ意見であるかのような顔をして、まかり出る。 だがわたしは、自分の意見をできるだけ鮮明にし、できるだけわたしらしい態度で出てゆく。 なんと甘っちょろい素人くさい調停者だろう! 自分に不忠である位ならむしろ事が成就しないことをのぞむというのだから! ところがこんにちまでのところ、万事はなはだ好運で(まったく正直のところ、ここでは運が最も主要な役を勤めるのである)、わたしほど疑われず・わたしほど可愛がられ親しまれながら・橋渡しをした者は、ちょっとないのである。 わたしのやり方はあけっぱなしで、初対面の時から相手に気に入られ、容易にその信をかちえてしまう。 素朴とまじり気のない真実とは、どんな時代においても時宜にかない受けいれられる。 それに、自由率直な言動も、少しも自分の損得など考えずに働く人々の場合には、疑いを受けたり嫌われたりすることはほとんどない。 そういう人たちは、あのヒュペレイデスが、その言葉の辛辣なのをアテナイ人から咎められた時にした答を、そっくりそのまま用いることができるのである。 つまり、「諸君よ、ただわたしが無遠慮だということだけを考えず、むしろわたしが何らの報酬も要求せず、少しも自分の仕事を有利にしようなどとは思わないからこそ、ただ無遠慮なのだと考えて下さい」と言えばいいのだ。 わたしの無遠慮もまた、その臆面のなさによって、そこに隠しだてがありはしないかとの嫌疑を容易に一掃してくれた(わたしはどんな言いづらいことでも容赦なくいってのけたから、人のいないところでもそれ以上の悪口はいいようがないと見えたのだろう)。 いやそれは見るからに二心なく、いかにもざっくばらんに思われるからである。 わたしは行動しながら、働くこと以外に何の果実も期待しない。 そこに遠大な計画や後日の結果などを付け加えない。 それぞれの行為がそれぞれするだけのことをする。 あとは成るようになればよいのだ。 * 三人のアンリ、すなわち国王 Henri , 神聖同盟派の頭目 Henri de Guise, 革新教徒の頭目 Henri de Navarre の間に立って、モンテーニュはしばしば調停をした。 解説及び年表参照。 それに、わたしは、えらい人たちに対して愛憎いずれの感情にも駆られないし、わたしの意志は私怨にも私恩にも縛られない。 (c)わたしは我々の王侯を、単に法的な・市民としての・愛をもって見る。 それは私の利害によって盛んにもならなければ衰えもしない。 この点わたしは自分に満足している。 (b)一般的な公正な動機にも、適度に・熱狂せずに・でなければ、拘束されない *。 わたしはあの、心の底までも窮屈にする抵当契約には引きずり込まれない。 怒りや憎悪は正義の義務を越えている。 それらは、単なる理性によっては十分にその義務を果しえない人々にだけ、役立つ感情である。 すべて適法公平な意図は、それ自体穏和中正なものであって、そうでなければ謀反をひめた不法なものになってしまう。 そう思うからわたしは、常に頭を高くし、顔をも心をもあけひろげて歩きまわるのである。 * 一般的な公正な動機に対しても過度になったり熱狂的になったりせず、常に節制と中庸を失わないという意味である。 彼も一方では、「人間は狂った状態においてでなければなんら偉大な業をなしとげることがない」と知っているのだが、しかし彼は飽くまで実際家であり平凡人である。 まったく、文字どおりに「身命を賭し」たり「粉骨砕身」したりしなければならぬ事柄というものは、落ちついて考えて見ればそうざらにあるものではないのである。 正直のところ(わたしはこう白状することを恐れない)、わたしもまた必要があれば、あのお婆さんが企てたように、一本の蝋燭を聖ミシェル *に、もう一本をその竜に、ささげないとも限らない。 わたしは正しい党派に、火あぶり台のところまでついて行くであろう。 だが、できるならその一歩手前までにしておく **。 モンテーニュの邸も社会の破滅とともに崩れ落ちるがよい、それが必要ならば。 だがそれに及ばないなら、邸が助かることを運命に感謝するであろう。 わたしはわたしの義務がゆるす限り、自分の家の保全に努めるつもりである。 あのアッティクスも、正義の側、すなわち負けた方の側にくみしはしたが、それでもその節制によって、世をあげての難船のなかで、すなわちあれほどの政変革命を通じて、よくその身を全うしたではないか。 ** Je suivray le bon parti jusques au feu, mais exclusivement si je puis. モンテーニュは自分の支持する党派に、あくまでついていく。 火あぶり台までもついていく。 ただし出来れば exclusivement(すなわち火まで、ただし火を含まず、その一歩手前まで)、で御免をこうむりたい、というのである。 彼のような私人にとっては、ことは比較的容易である。 いやわたしだって、頼まれもしないのにあの種の仕事に自分から関与しようという野心を持たなくても、当然ゆるされてよいと思っている。 だが、自分の国の混乱に臨み、公衆の分裂を前にしながら、その感情を動かすことも傾けることもなく、どっちつかずでぐらついているのは、決して美しいことだとも正しいことだとも思わない。 (c) そは中正の道を取ることにあらずして、いかなる道をも取らざることなり。 そは形勢を観望して、運めでたきかたにつかんとするものなり * (ティトゥス・リウィウス)。 * ここでもモンテーニュの懐疑説が純粋のピュロン説でないことがわかる。 彼がよく公私の生活を識別し、みずから愛国者として積極的な行動に出たこともしばしばあることは、彼の伝記が語るとおりである。 それは隣りの国の事件に対してならば許されよう。 スュラクサイの 僭主 ( せんしゅ )ゲロンは、蛮民がギリシア人に攻めかかったとき、今申したように、いずれに味方すべきかを決定しなかった。 すなわちデルフォイに 貢物 ( みつぎもの )を携えた一人の使臣を滞留させ、運がいずれの側に幸いするかを見さだめて、時を移さず勝った方と手を握る機会を逃さないようにと、命じたのである。 だが自国内の事件に関してそのようなことをすれば、一種の裏切り行為となるだろう。 この場合は是非とも (b)断乎たる決心によってその態度をきめなければならないのだ。 だが全然ことに関与しないことも、何の公職もなく何ら司令の義務もない人においては、他国の戦争に参加しないのと同様に、許されてよいことだと思う(もっともこの弁解はわたしにはあてはまらないが)。 わが国の法律は、外国との戦争に対しては、それに参加したくない者が参加しないことを許しているのであるから。 けれども、一身をあげて事件に参加せねばならない人々〔王臣ないし軍人〕だって、秩序と節制とをもってそれにのぞめば、暴風はただその頭の上を吹きすぎるだけで、何の損傷もこうむらないですむのである。 さきのオルレアンの司教モルヴィリエ *殿について、我々がこんな風にしてもらいたいと希望したのは間違いだったのであろうか。 わたしはこんにち、内乱にのぞんで雄々しい働きを示している人々の中にも、その性質がきわめて温和平静であって、天がいかに恐ろしい変異を下すとも泰然として動かないだろうと思われる幾人かを、知っている。 わたしは王侯に対していきり立つのはもっぱら王侯であるべきだと思う。 あまりにも不釣合な喧嘩にあえて立ち向うあの威勢のよい連中を見るとおかしくなる。 まったく我々は、自分の名誉のために自分の義務に従って公然と勇ましく王侯に立ち向うとき、彼と私の争いをしているのではないのである。 この場合王侯は、このような人物を好まないにしても、それ以上に、彼に一目おく。 特に法律のため旧制度擁護のための争いである場合には、私の目的のためにその国を乱している王侯たちまでが、そのような擁護者を、尊敬はしないまでも容赦するのが常である **。 ** これはモンテーニュ自らの政治上の主義を述べているものと考えられる。 自分はアンリ三世のために働いているのでもアンリ・ド・ナヴァールのためにしているのでもない。 正義のために、国家人民のために働いているのだという、自分の心事を述べているのであろう。 「私の目的のためにその国を乱している王侯たち」とは、神聖同盟派の人々を指しているのであろう。 しかし私利私情から生れる胸の中の苛立たしさ激しさは、決して(我々が日常呼びならわしているように)義務と呼んではならない。 二心ある・よこしまな・行為は決して勇気と呼んではならない。 人々はその邪悪と乱暴とに向う心を熱心と名づけている。 つまり彼らを奮い立たせているのは大義名分ではなくて私利私欲だからである。 彼らが戦争をあおり立てているのは、それが正義であるからではなくてそれが戦争であるからだ。 我々が互いに敵である人たちの間に立って協調的に・公平に・ふるまったとしても、いっこう差支えないのである。 いつも均等な感情でのぞみえないまでも(まったく人の感情は時によって程度を異にするのである)、少なくとも中正な感情をもってお臨みなさい。 一方の人たちにだけ片よってそのいいなり次第になってはいけないのだ。 また彼らのほどほどの愛顧で満足しなければいけない。 そこに魚をとろうとはせず、ただ濁流の中を泳ぐだけで満足なされよ。 もう一つの態度、すなわち全力をつくしてこっちにもあっちにも奉仕するというのは、良心を欠いているというよりはむしろ思慮を欠いていると言った方がよい。 その一方のために、やはり君をちやほやしているもう一方を裏切ってごらん。 前者も、この次にはおれの方が裏切られる番だと、さとらずにはいまい。 彼は君を邪悪な人間だと思う。 そのつもりで君のいうことを聞き、君を利用し、君の不信を自分のために利用する。 まったく二心ある人間は、利用するつもりになればなかなか役に立つものだ。 だが、こっちもなるたけ利用されないように用心しなければならない。 わたしはどっちの人にも、いつかまたもう一方に対して僅かに語調を変えるくらいで言いうることでなければ、いわないのである。 どっちつかずの事柄、知れきった事柄、あるいは両方に役立つ事柄でなければ、伝えないのである。 そこにはわざわざ彼らを欺くほどの利益はないのである。 黙っていろと言って明かされた事柄は、そっと胸に秘めておく。 けれども、内証のことはできるだけ伺わないことにしている。 王侯がたの秘密なんて、これをどうしようもない人間にとっては、迷惑千万な預り物と言わねばならない。 わたしはよくこんな取引をする。 「あまり私に打ちあけたもうな。 その代り私の申上げることは思い切ってご信用ください」と。 それでもわたしは、いつも思いの外に多くのことを洩れ承ったのである。 (c)こっちが打ちあければ、むこうも胸を開いて語る。 ちょうど酒や恋と同じである。 (b)フィリッピデスは、「わたしの財宝の何を譲ろうか」といったリュシマコスに、こういう賢明な返答をした。 「何なりとも。 ただし君の秘密だけは御免だよ」と。 人は誰でも何か仕事をたのまれながらその奥底を隠されたり、その背後にある若干の意味を明かされないと、機嫌を悪くするようだ。 だがわたしは、人がわたしにさせようとするそのこと以上に何もいってくれなくてもいい。 かえって事情を知りすぎて、言おうとすることが言えなかったりしては困るのである。 よし詐欺の道具に使われるにしても、せめてわたしの良心だけは清らかにしておきたい。 わたしは、「 謀反 ( むほん )をあかしても安心な男」といわれるほどの忠実なしもべにはなりたくない。 自分に不忠な者が主人に対して不忠でも、それは大目に見てやらなければならない。 ところが王侯がたは、半分の人間は受け容れて下さらぬ。 そして制限や制約のある奉仕をおきらいになる。 これには全く閉口する。 でもわたしは、正直に自分の奉仕の限界を彼らに告げる。 まったく奴隷になるくらいなら、ただ理性だけに奴隷でありたい。 いやそれにだって、奴隷にはなり切れそうにないけれど。 (c)それに彼らもわるい。 一個の自由な人間に向って、彼ら自らが育て上げたり買ったりした者に対するように、またその運命が特に明らかに彼らの運命に結びついている者に対するように、絶対の服従や奉仕を要求するのは間違っている。 (b)法律はわたしから大きな困難を除いてくれた。 法律はわたしのために、わたしのくみすべき党派を選び、わたしの仕えるべき一人の主人を見つけてくれた。 他の権威他の拘束は、どれも皆法律の権威拘束の中に包括され局限されねばならないのだ。 だからわたしの感情がわたしを別の方向〔宗教改革〕につれてゆくことがあっても、わたしはすぐさまその方の人と手を結ぶつもりはない。 意志と欲望とはただ自分の法規に従えばよいのであるが、行動の方は国家が規定する法律に従わねばならないからである *。 * この句もモンテーニュの宗教上政治上の態度をかなりによく説明してくれると思う。 心にはいかなる信仰いかなる哲学をいだいていても、行動の上では国法に従うというのがこの人の態度であったと察せられる。 すべてこうしたわたしのやり口は、世間一般の仕方とはかなり喰違っている。 これは大きな効果を生み出すものでも永くつづけられるものでもないであろう。 我々の間では、正直だけでは何一つできないのだ。 猫をかぶらなくては商談もできないし、嘘をつかわなくては談判もできないのだ。 だから、公務にたずさわることはどうしてもわたしの性に合わないのである。 職分上取らねばならぬ公務を、わたしはできる限りわたしの流儀のやり方で果した。 若い頃、人はわたしを耳まで公務の中に漬けた *。 そして成功した。 だが、わたしはさっさとそこをぬけ出した。 それから後は、公務にたずさわることをしばしば回避した。 稀にそれを受けても、決して自ら求めはしなかった。 いつも野心に背を向けてきたのである。 だが、そうやって後向きにぐんぐんとのしてゆく 漕手 ( こぎて )とはわけが違うのである。 もっともわたしがそうした舟に乗込まなかったのは、そうと決心した結果ではなくて、むしろわたしの好い運のためであった。 まったく、わたしの趣味にさほどに反せず・またわたしの能力にもっともふさわしい・幾筋かの道もあったのである。 もしも運命が、それらの道によって、昔わたしを公務にと導き、また世間の信用へと案内したならば、おそらくわたしも、わたしの思想上の理由をふみ越えて、そうした運命の導くがままに赴いたかも知れないのである。 * 年齢制限免除により、若くしてコンセイエになったことを指す。 こう言うと早速わたしの言葉をさえぎって、「お前は日頃率直だとか単純だとか正直だとか言うが、それはみんな技巧策略だ。 お人好しではなくて用心、自然ではなくて巧知、運がよいのではなくて勘がよいのだ」と口を揃えて言う人がいるが、それはわたしにとってはむしろ名誉なことで、少しもそれによって名誉を傷つけられたとは考えない。 けれどもほんとうに、それはわたしの策略をあまりに買いかぶっているのだ。 もうすこし詳しくわたしの行動を審査してもらいたい。 その上でなお、「なるほど自分たちの学派には、お前みたいに自然に振舞うことをゆるす規則はない。 あんなに曲折が多く多様な道筋を通じて、お前みたいにいつも変らず、しじゅう自由気ままな態度で押しとおすことをゆるす規則はない。 いくら注意を払っても工夫をこらしても、とてもお前のその自由率直にはかなわない」と告白しないですむようなら、そのときにこそ始めてわたしは 冑 ( かぶと )を脱ぐことにしよう *。 真理への道はただ一筋である。 一身上の利益や自分のたずさわっている仕事のための便益に通ずる道は二重であり、不同であり、偶然である。 わたしはしばしば曲げられた・人為的な・わがまま勝手が行われるのを見たけれども、それは最もしばしば効を奏しなかった。 それはいつもアイソポスの 驢馬 ( ろば )を思わせる。 彼は小犬とせりあって、甘えて主人の肩に両足をかけたのであるが、犬の方はたくさんの愛撫をうけたのに、可哀そうに 驢馬 ( ろば )の方は、同じ仕草のために倍数の 鞭笞 ( むちしもと )をくらったのであった。 (c) 我らに最も似合うことは、最も我らのままにあることなり (キケロ)。 (b)わたしは 欺瞞 ( ぎまん )からその位をうばおうとは思わない。 それは世間を誤り解することとなろう。 わたしも欺瞞がしばしば有効に役立っているのを、それが人間の大部分の職業を支持し養っているのを、知っている。 世には適法な不徳があるのだ。 あたかも良い・或いはゆるすべき・行為でありながら、適法でないものがいくらもあるように。 * これはマキアヴェリストに対する反論。 「君たちは僕(モンテーニュ)を策略家だという。 それはむしろ僕にとっては光栄千万だが、今すぐその断定には承服しかねる。 もう一度よく考えてから物を言ってもらいたい。 そうすれば、策略にかけては自分たちの方がうわてであることを、君たちは自ら認めないわけにゆくまい」というのである。 自然で普遍的な正義そのものは、もう一つの (c)特殊な・国家の・ (b)我々の行政上の必要にしばられた・正義とは別様に、それよりも高貴に、規定されている。 (c) 我らは真正の権利・完全なる正義・の確実な模範を知らず。 我らはただ僅かにその影を模倣するのみなり (キケロ)。 (b)それで賢者ダンダミスは、ソクラテス、ピュタゴラス、ディオゲネスの一生の物語を聞くと、彼らを「他のすべての点においては偉大な人物であるが、あまり法律に服従しすぎた」と判断した。 つまり法律をあまり擁護しすぎると、かえって真の徳義がはなはだしく本来の力を失うからである。 そして、たんに法律に許可せられてではなく、むしろそそのかされて、たくさんの悪業がなされるからである。 (c) 元老院の決議および人民投票によりて犯されたる罪あり (セネカ)。 (b)わたしは一般の言葉遣いに従って有益な事柄と正しい事柄とを区別するが、そうすると、たんに有益であるだけでなく必要でさえある或る自然の行為までも、不正不潔と呼ばざるを得ないことになる。 だが我々の裏切りの話を続けよう。 トラキアの王位を望む者が二人 *、互いにその権利を主張して譲らなかった。 ローマの皇帝ティベリウスは彼らが武器に訴えることを妨げた。 ところがその一方は、会見によって友誼的和解をとげるように装って、相手を自分の家の御馳走によび、これを牢に入れ殺してしまった。 正義に訴えて考えれば、ローマ人はこの非行の報復をなすべきであったろう。 けれども普通の方法ではそれをなしとげることが困難であった。 そこで彼らは、戦争も危険もなく合法的にはなしえないことを、裏切りによって行おうと企てた。 彼らは誠実な仕方ではなしえないことを、有利な仕方でなしとげようとした。 それにはポンポニウス・フラックスという者が適任と認められた。 この男は、嘘の約束と保証をして相手を自分の網の中に引き入れ、約束した名誉と恩恵とを与えるどころか、その手足を縛ってこれをローマに送った。 このように裏切者の裏をかいたことはまことに珍しい。 まったく、裏切者はひどく疑いぶかいから、彼らが得意とする策略によって彼らの鼻をあかすことはむつかしいのである。 その証拠には、我々もつい先頃、そのために 苦 ( にが )い経験 **をなめたではないか。 ** 一五八八年にカトリーヌ・ド・メディシスとアンリ・ド・ギュイズとの間に行われた見せかけの和解を指しているのではあるまいか。 なりたければポンポニウス・フラックスになって見るがよい。 なりたい者は相当にたくさんあろう。 だがわたしにおいては、言葉も真心も他の部分と同様に、みな国家という一つの体の一部をなしている。 それらの最良の働きは、公に奉仕することである。 わたしはこのことを第一の前提としている。 けれども、もしわたしが、「裁判官となって訴訟をさばけ」と命ぜられるならば「そのようなことはさっぱり不案内で」と答えるであろうように、また「開墾者の監督をやれ」といわれれば「わたしはもう少し気のきいたことができるはずだ」と答えるであろうように、もし誰かが、何か重大な奉仕のためにわたしに嘘をつかせ裏切りをさせ心にもない誓言をさせようとするならば、それが暗殺や毒殺を目指してはいなくたって、わたしはいうであろう。 「わたしは泥棒をするくらいなら、むしろ漕役 *の方にまわしてもらおう」と。 まったく名誉を重んずる者は、かつてラケダイモン人がいったように語ることができるのである。 すなわち彼らはアンティパトロスに負けていよいよ講和の場にのぞむと、「君たちは我々にいくらでも重く苦しい荷を負わすことができる。 けれども恥ずかしい不正な事柄を 強 ( し )いようとしても到底むだであろう」と答えたのである。 人はみなあのエジプトの王たちがその裁判官たちに荘厳に宣誓させたこと、すなわち、「いかなる王の命令があろうとも決して 己 ( おの )が良心はいつわるまい」ということを、自らに向って誓うべきである。 今いったような無理な言いつけの中には、恥と罪とが歴然と現われている。 ああいう命令を課する者は、君に罪をなすりつけているのだ。 よく彼のいうところを理解して見れば、ひっきょう彼は君に重荷と苦悶とを授けているのだ。 君の働きによって世間の事情が良くなれば、それだけ君の胸のうちは苦しくなる。 君がそれに成功すれば、それだけ君は損をする。 それに、君にそれを命じた当人が君を罰することも珍しくはなかろうし、またひょっとするとその方がかえって正義らしく見られることすらあるであろう。 (c)不信不実もある場合はゆるされる。 だがそれは、ただ不実を罰し不信の裏をかく場合だけにかぎるのである。 * ファブリキウスがピュロスと戦ったとき、ピュロスの侍医はファブリキウスに向って、「ピュロスを殺して戦いを終えよ」と進言した。 ファブリキウスはこの侍医を縛ってピュロスの許に送った。 ロシアのヤロペルク公はポーランド王ボレスラスを裏切ろうとしてハンガリアの一貴族を手なずけ、これに「お前が自らポーランド王をなきものにしてくれるか、さもなくばロシア人の方でこれに何か重大な危害を与えうるような便宜を与えてくれ」と頼んだ。 そこでこの男はきわめて巧みに立ち回り、従前以上に王の信任をえ、まずその顧問、しかもその最も忠実な顧問になりすましてから、いよいよその特権を利用し、また主君の留守の間をねらって、とうとう〔ポーランドの〕富裕な大都市ヴィスリチュカをロシア人に売った。 それでこの都はロシア人のためにすっかり掠奪された上に焼きはらわれ、たんにその老若男女の住民ばかりでなく、彼の計略によっておびきよせられた近郷の貴族たちまでが、そこで命をおとしたのである。 かくてヤロペルクは、そのいわれがないでもない 敵愾心 ( てきがいしん )と怒りとを満足させられたけれども(まったく彼はボレスラスからさきに同じような侮辱を与えられたのである)、さていよいよこの裏切りの結果に飽きて見ると、その醜悪な点ばかりがまざまざと想い出され、今はもうそれを情念に曇らされていない健全な目で見るようになり、非常な後悔と嫌悪とを感じ、とうとうその実行者の目をえぐり舌を抜き、その恥ずかしい部分を切断させた。 アンティゴノスは銀楯隊の老兵どもを説きふせて、自らの敵であり彼らの総大将であるエウメネスを売らせた。 けれども彼らからこれを受け取りこれを殺してしまうと、みずから神に代ってそのような憎むべき大罪を罰してやろうと思い、彼らを地方長官の手にわたし、どんな方法によってでもよいから彼らに酷刑を加えるよう厳命した。 そのために、彼らの数はおびただしいものであったけれども、それ以来そのなかの誰一人、マケドニアの空を見たものはなかったといわれる。 裏切りの命令がよく行われただけに、それだけ彼は、そのことを悪い罰すべきものと判断したのである。 (c)その主人プブリウス・スルピキウスの隠れ家をあかした奴隷は、ス ラの解放令が約束するところに従って自由の身になった。 けれども国法の命ずるところに従って、せっかく自由の身となったのにそのままタルペイウスの岩の上から突き落された。 これはまず報酬の入った財布を首にかけてやってから、その 紐 ( ひも )で首をしめたようなものである。 まずもって第二の特別の約束を果しておいて、次に第一の一般的な約束を全うしたわけである。 マホメット二世は弟の威勢が盛んになることを恐れ、彼を亡きものにしようと、その国の習慣に従って家来の一人にそのことを託した。 この者は、彼の口中に水をしたたかに注ぎこんで窒息させた。 後に王はこの殺害の罪を 贖 ( つぐな )うために、その下手人を死んだ弟の母にわたした(二人は腹ちがいの兄弟であったから)。 母は彼のいる前で殺害者の胸をさき、そこに手をつっこみ、まだ熱い彼の心臓をつかみ出して、これを犬に喰わせた。 我々の王クロヴィスはカンナクルの三人の下僕を、彼らがその主人を自分に売ってから後に絞め殺した。 彼らにそれをさせたのは彼自身であったくせに。 (b)やくざな者どもでさえ、何か不徳な行為から得をしてしまった後に、いわばその罪滅ぼし良心のつぐないとして、自分の身を少しも危うくすることなしに何かの善行と正義のしるしをそれに縫いあわせることができるならば、はなはだしあわせなのである。 (c)それに彼らは、そういう恐ろしい罪悪の実施者を、あたかも自分たちに向ってその非を責める人のように見るのである。 だからこそこれらの者を殺して、そういう悪だくみの認知と証拠とを抹殺しようと努めるのである。 (b)ところで万々一、人が、そういう最後の自棄的な方策が世間には必要であることを否定しないで、君の裏切りに報いるところがあったとしても、その人だってしんからの不信な人でない限り、やはり君を呪われた憎むべき人間と思わずにはいない。 そして君が裏切ったその人以上に、君を裏切者と考えるのである。 まったく彼は君の 邪 ( よこしま )な心を、君自身の手によってためしたので、そこには否認も抗議もありえないのである。 それでも彼は君をそこに使用する。 ちょうど堕落した人間を死刑の執行に使用するのと同じことで、この役ははなはだけがらわしいものではあるが、また有用でもあるのである。 こういう役目は、それ自体醜悪である上に、その人の良心を腐敗させる。 セイヤヌスの娘は処女であったので、ローマにおける裁判上のある形式のために死刑に処することができなかったから、その刑を執行するために刑吏をして首をしめる前にけがさしめた。 この刑吏は、その手のみならず、その霊までも、公用のために奴隷としたのである。 (c)アムラト一世は、太子が自分に対して企てた謀反と父殺しを手伝った家来どもの刑罰を、いやが上にも苛酷なものにしようと、彼らの最も近い肉親にその刑の執行を手伝わせた。 その中の幾人かが、「他人の親殺しを手伝ったという無実の罪をきせられる方が、自ら親殺しをあえてして正義〔裁判〕に奉仕するよりはまだましだ」と考えたのは、はなはだ正しいと思う。 だが我々の時代に或る要塞が攻囲をうけた際、馬鹿者どもがただ自分の命が助かりたさに、その僚友の首をしめることに賛成するのを見た時は、わたしは彼らを、首をしめられる者よりも一そう可哀そうな奴だと思った。 いい伝えによると、むかしリトアニア人の帝王ヴィトルドは、「罪人は自分に与えられた死刑の布告を、自らおのれの手によって執行すべし」という法を立てたというが、罪とがのない第三者が殺人の役目を強いられるのはおかしなことであると考えたからだ。 (b)帝王は、国家の要請する緊急な事情のため、何か唐突かつ意外な出来事のために、その誓約をひるがえさなければならないときには、いいかえればその平常の義務にはずれなければならない時には、この必要を神の 鞭 ( むち )と考えなければならない。 それは決して不徳ではないが(まったく彼は、より強くより広い別の理由のために自分ひとりの理由を譲ったのである)、それはたしかに不運なことであるには違いない。 だからわたしは、「ではそれに対してどのような方法があるか」というある人の問いに対して、こう答えたのである。 「仕方がない。 もし帝王が真にこの両極の間に板ばさみになったのであれば、そうするよりほかはない( (c) ゆめここに宣誓違反の口実を求むることなかれ (キケロ))。 (b)けれども、それはやむをえずなされたことではあろうが、それが少しも遺憾の念なくなされたのであれば、そうすることが彼に少しも心苦しく感ぜられなかったのであれば、やっぱりそれは彼の良心が腐っている証拠である」と。 (c)もしここにきわめて良心的な帝王があって、「どんな治療に用いるにしても、そのような荒療治はふさわしくあるまい」と考えたとしても、わたしはこの王に対する尊敬を少しも減らしはしまい。 そのために彼は身を滅ぼしても、それは許すべくまた正しいことであったといわねばなるまい。 我々は万能ではないのだ。 どっち道、我々は、しばしば我々の船の保護を、ただただ天の引きまわしに 委 ( ゆだ )ねなければならないのだ。 天こそ我々の最後の港である。 世の帝王にとって、天の命に従うくらい公正な辛抱我慢がほかにあろうか。 自分の良心と名誉とを犠牲にしなければなしえない事柄くらい、帝王にとってなすにしのびないことがまたとあろうか。 この良心と名誉とこそは、彼自らの安泰よりも、また人民の安泰よりも、彼にとって大事なことなのではあるまいか。 腕を組んで虚心に神の助けを呼びながら、彼は善良なる神が清く正しい者にその非凡な助力をおしまれるはずはない、と思ってはならないのだろうか *。 * ここにこの一章の眼目、モンテーニュの政治論の究極を、見なければなるまい。 彼は政治と道徳とを混同しない。 彼は本来ポジティヴィストであるから、そのマキアヴェリスムに対する論難の仕方は、当時一般の道徳家とはちがっていたのであるが、しかし、結局はマキアヴェリスムを排撃している。 すなわち、帝王は宜しくその権謀術数に勿体らしい理屈をつけることをやめ、もっぱら神意をたずね、自分の良心に訴えて、政治をすべきだ、というのがモンテーニュの結論である。 マキアヴェリスム批判については前出、第二巻第十七章参照。 (b)以上に述べた話は危険な実例であり、我々の自然の法規の稀な病的な例外である。 我々もこれに譲歩しなければならないが、それは大きな節制と用心とをもってしなければならない。 私の利益は、どんな場合もこのような我々の良心に対する無理を正当化することはできない。 公の利益のためならばよいが、それもその公益がはなはだ明白で、かつはなはだ重大なものである場合に限る。 (c)ティモレオンは、暴君を殺したその手がまさに兄弟である自分の手であったことを思って涙 *を流したために、その勲功の非道を責められずにすんだ。 実際、あのように兄弟の義務を犠牲にしてまでも公の利益を守らねばならなかったことが、彼の良心を刺激したのは当然である。 元老院も彼の行いによって救われながら、なおすらすらとはこの功績を判定しかね、二派の全然相反する意見にわかれたのであった。 ところがちょうどそのとき、スュラクサイ人が使をよこして、コリント人の援助を求め、自分たちの都を昔の隆昌にかえし、シチリアの地を圧制する多くの暴君を一掃してくれるような大将を一人貸してくれといって来たので、さっそく元老院はティモレオンを呼びよせ、彼がその任を立派に果すか否かによって、祖国の解放者たる名誉を与えるか兄の殺害者として処罰するかを決定する、とあらためて申しきかせた上、彼をそのスュラクサイに派遣した。 しかしこの気まぐれな結論もまた、あの特異な行為の重大さと、それが前例となる場合の危険を考えれば、多少 恕 ( じょ )すべきものがある。 実際、直ちにその判定をすることを避け、これを別の第三者の考察によって決しようとしたのはよかった。 ところで、ティモレオンのこの旅さきにおける働きは、やがて彼の立場を明瞭にした。 それほど彼は、様々の点においてその力量と徳性とを示したのである。 またこの高貴な任務には多くの困難があったにもかかわらず、彼が首尾よくそれをなしとげたのは、ひとえにこの人の行為を釈明してやろうと思召された神々の 賜 ( たまもの )であるとも、思われるのである。 * 第一巻第三十八章の最後のパラグラフ参照。 このティモレオンの意図はゆるされるべきである、人を殺すという意図も時にゆるされることがあるとするならば。 ある幾つかの都市は、ルキウス・ス ラの努力の結果、元老院の布告および許可により、金を払って再びその自由を獲得した。 ところが後に再びそのことが問題になると、元老院はかつての約束を無視してそれらの都市から従前どおり税をとることにきめ、しかもかつてそれらの都市の自由と引きかえに受けとった金は返さなかったのである。 内乱はしばしば次のような忌わしい事件をひき起す。 例えば我々の方が昔と考えがかわってくると、かつて我々の党派を信じた人たちを処罰する。 同じお役人が、自分の変説の罪を、これを夢にも知らない者に負わせる。 先生が、従順だと言ってその弟子を鞭うち、案内者が、自分についてくる盲人を叱りつける。 何という恐ろしい正義の姿であろう! 哲学の規則の中にも嘘のものもあればいい加減なものもある。 私の利益を良心よりも重く見させるために哲学が我々に示す次のような事例は、いくら人々がそこにこじつけられた情状を酌量して見ても、十分な重味を持たないのである。 泥棒が君をとらえ、幾ら幾らの金額を支払うという約束をさせた上、君を放したとする。 「いくら正しい人間でも、一度彼らの手のうちから脱したら、正直に金を支払わないでもよい」というのは間違っている。 とんでもないことだ。 恐怖がわたしに一ぺんそう決心させた以上、恐怖がなくなってからもわたしは約束どおりにしなければならない。 わたしにはその意志がないのに、唯恐怖がわたしの舌を強いただけであったにしても、あくまでわたしは約束を守らなければならない。 わたしは恐怖のためにうっかり思わぬことを口ばしったのであっても、やはり約束したことは守るように心がけた。 そういうことにしなければ、我々は第三者が我々の誓約について持つ正当な権利を、だんだんとくずしてゆくことになるであろう。 かくては正義の人も暴力の前には屈することあるがごとし (キケロ)。 ただ一つだけ例外がある。 すなわち、約束したことそれ自体が 邪 ( よこしま )な不正なことである場合には、ただ私の利益だけのためでも、約束を守らなくてもゆるされる。 まったく、徳の権利は契約の権利に優先しなければならないのである *。 * モンテーニュは第三巻第十二章に、ある森の中で敵に襲われ、身の代金を強要された経験を物語っている。 その時の彼の態度は、ここに述べている彼の考えが口先だけでないことを証明している。 (b)わたしはかつて〔二の三十六〕、エパメイノンダスを優れた人物の第一位においた。 わたしはこの言葉をひるがえさない。 どこまで彼は自分の個人的義務を重んじたか。 彼はあくまでそれを重んじて、みずからうちまかした敵をも決して殺さなかった。 彼はその祖国を自由にするという最も貴い善行のためにすら、裁判の形式によらなければ暴君をもその共犯者をもあえて殺すまいと心がけた。 いや、戦場で敵側にあるおのれの友人や恩人に出会ってこれを助けなかった者は、それがいかに忠誠な市民であってもそれを悪人と判断したのである。 これこそ豊かな霊魂の人と言うべきである。 彼は人間の最も粗暴な行為に、慈悲の心を合体させた。 実にそれは、哲学の塾に見出される最もデリケートな霊魂であった。 あれほどに大胆な、そして苦痛や死や貧に対して我慢強い心をやわらげて、あれほど優しい慈悲深い性質にしたのは、そもそも自然であるかまた修業であるか。 刀や血を見るとすさまじい勢いを示す彼は、彼以外にかなう者のなかった強国をうちやぶるために出かけたが、その激戦の最中にも恩人や友人に出あうとこれをかわした。 実にこの人こそ、最もふさわしく最もよく戦争を指導した人である。 彼は戦争が最も白熱するとき、すなわち狂暴と 殺戮 ( さつりく )とでそれが最も沸き立つときに、それに優しさの 轡 ( くつわ )を含ませたではないか。 ああいう野蛮な行為にいくらかでも正義の姿をもたせることができるとは誠に不思議であるが、エパメイノンダスのような豪胆の人であって始めて、よくそこに最も柔軟な最も純潔な優にやさしい心根を加味することができるのである。 いや、ある人はマメルティニーの人たちに向って、「法規は武装した者には適用されない」といい、ある人はある部落の民に対して、「法律のときと戦争のときとは二つである」と言い、また第三の人は、「武器の響は法律の声を聞くのを妨げる」と言ったが、このエパメイノンダスにいたっては、礼儀礼節の声さえ聞きもらしはしなかった。 彼は出陣に際してミューズの女神たちに犠牲を献ずる習慣を、その敵ラケダイモンの人たちから借りて、この女神たちの優しさと陽気さによって戦争の狂暴残酷をやわらげようとさえしたではないか。 すでにこのように偉大な先生もあることだから、 (c)敵に対してさえ決してしてはならない何事かがあり、 (b)公共の利益といえども私の利益を無視して、すべての人にすべてを強要してはならないということを、あえて認めようではないか。 (c) 私権の想出は公法の争いの中にもなお残りとどまればなり (ティトゥス・リウィウス)。 (オウィディウス) いや正しい人から見れば、 (c)その王のため、 (b)公共のため、また法律のためだからといって、どんなことでもすることが許されてはいないのである。 (c) 祖国に対する義務は他のすべての義務を免除せず。 むしろ祖国は、まず国民がその親達に対して義務をはたすべく命ぜざるべからず (キケロ)。 (b)これこそこんにちの人にふさわしい教訓である。 我々はあの鋼鉄の板で我々の心までも硬くするには及ばない。 我々の肩さえ硬くできればそれでたくさんなのだ。 我々のペンはインキの中につければ十分なので、血の中につけるには及ばないのだ。 友愛や私の義務や約束や近親の 誼 ( よしみ )を、公の福祉、法規への服従のために軽視することが、偉大な心まれなる徳の結果であるというなら、我々はほんとうにこういいわけをすれば足りる。 「そんなのはエパメイノンダスの偉大な心の中にも宿りえない偉大ですよ」と。 わたしは、この人とはちがって、度をはずれたあのカエサルがすすめる狂暴な激励をきらう。 (ルカヌス) 血に渇き不信に凝り固った、しんから邪悪な人たちから、こういうもっともらしい口実を取り上げよう。 こういう途方もないはめをはずした正義は捨てて、もっと人間らしいお手本を真似よう。 時勢と実例の力は恐ろしいものである。 内乱の際のキンナに対する会戦において、ポンペイウスの一人の兵士は、はからずも敵方にあった兄弟を殺すと、恥ずかしさと悲しさのあまりその場で自殺した。 ところがそれから数年の後、この同じ国民のもう一つの内乱の時、ある兵士は自分の兄弟を殺したと言って、その大将に恩賞を要求した。 ある一つの行為を、ただそれが有益であるからというだけで、正しく美しい行為だとするのは間違った論法である。 有用なことにはみなが従わねばならぬ、 (c)有益なことは誰に取っても正しいことである、 (b)と結論するのも間違っている。 この章は「四十年来、わたしはもうまったく、語るのにも書くのにも、それ〔ラテン語〕を用いたことがない」(九四二頁)と書いているところからおして(彼がギュイエンヌ学校を卒業したのは一五四六年であるから)、大体一五八六年頃に書かれたものと思われる。 この章のおもな興味は、彼の みずから描く理由が最も明瞭に説かれているところにあろう。 一五八〇年の序文や第二巻第十八章「嘘について」などで見ると、「親戚朋友」のために彼特有の性癖などを書きとめるのが著者の目的であったらしいが、ここではむしろすべての読者の役に立つような、もっと一般性のある、自分の性格の分析指摘に努めているようである。 すなわち彼は、各人はみなそれぞれに「人間の本性を完全に身にそなえている」との認識に立っているのだ。 つまり、彼がその哲学の根拠としている自然は各個人のうちにその枝葉をひろげているので、われわれのうちにはわれわれの個性となる何か特異なものもある代りにまた普遍的なものもあって、おのおのの経験は相互に役にたてることができると考えるのである。 それから、従来彼は人間の思想感情が常に動揺変化してやまないことを語っているが(一の一、二の一および三十七)、ここではそういう変化の底にも何かしら持続的恒久的なものがあることを発見しているようである。 すなわち彼はもう明らかにセプティックではなくなっている。 今ではヒューマニストとしてのはっきりした信念の上に立って、すこぶる大胆にその道徳観を述べている。 その道徳観の根本には「女を見て色情を起すものは……」という福音書のモラルにも劣らない清洌厳正なものが感じとられるばかりでなく、われわれはここに、神の観念ないし模範とは全然きり離された純然たる人間的モラルのよりどころを教えられる。 神だとか天皇だとか法律だとか世間の眼だとかいうようなものによらない道徳、理性主義者でも科学者でもいだき得る道徳、ひいては民主主義国民がその基本的人権と共に誇りをもっていだきうる、真のモラルのあり方を教えられる。 モンテーニュの道徳が従来いささかルーズであるように伝えられているのは、おそらく彼が肉体生活の面を軽視しなかったためであろうが、これは現代人にとってはもはやまったく問題とならない。 むしろかえって儒教やキリスト教の超人的ないし非人間的道徳観にさんざん悩まされた我々にとっては、魅力でもあり救いでもある。 彼は本来徹底したヒューマニストであって、ときには人間の愚かさをも卑しさをも悲惨さをも十分に認めるが、それでもなお人間の尊さを見おとすことが決してなかった。 それで彼は、パスカルがあのようなペシミストになったのに、依然としてオプティミストでありえたのである(それはモンテーニュが生れながらによき天性をめぐまれていたせいでもあるが)。 前者がすべてを天に向って乞い求めながら終生不幸で苦悶を脱しなかったのに対し、モンテーニュがすべてを自分に求めるだけでかくも愉快に幸福に一生を終ったことを、我々はここに特筆せざるを得ない。 要するに彼のモラルは、人間が人間のままで、すなわち神も聖寵もなしに、清く正しくかつ幸福に生きられることを教えたのであって、これこそ現代人の求める道徳ではあるまいか。 神秘的キリスト教の道徳観のうちに教育された人は別として、今日ではモンテーニュの道徳こそ人間としてもちうる限りの最も清洌なものであることに異議をさしはさむ者はないであろう。 (b)他の人たちは人間を造る。 わたしはそれを描く。 しかもきわめて出来のわるい一個人の似姿を表わす。 それを新たに造り直すのであれば、わたしは本当にそれをまったく別のものにするであろう。 だがもう追っつかない。 さて、わたしの描線はいろいろに変ってはいるが、決してごまかしてはいない。 世界は永遠の動揺にすぎない。 万物はそこで絶えず動いているのだ。 大地も、コーカサスの岩山も、エジプトのピラミッドも。 しかも一般の動きと自分だけの動きとをもって動いているのだ。 恒常不変と言っても幾らか緩慢な動きにすぎない。 わたしはわたしの 対象 ( モデル ) *が固定できない。 それは生れつきの酔っぱらいみたいに、よろよろふらふらと歩いて行く。 わたしはそれを、ふとそれに心をとめるその瞬間に、そのあるがままの姿において捉える。 わたしは本体 tre を描かない。 推移 passage を描く。 一年ごとの推移でも人々のいう七年ごとの推移でもなく、毎日・毎瞬・の推移を描くのだ。 わたしは叙述をその時機に適合させなければならない。 わたしはやがて変るだろう。 偶然に変るのみならず故意に変ることもあろう。 わたしの叙述は、種々様々な変り易い偶然事と、定めない・いな時には相反する・空想との記録なのである。 それはわたし自らが変るからであろうか。 それとも物事を別の事情、別の考察の下にとらえるからだろうか。 とにかくわたしは時と場合で随分矛盾したことをいうらしいが、デマデスがいったように真実は決してこれをまげないのである。 もしわたしの霊魂ががっちりと立って動かないものならば、わたしは自分を試さないであろう。 自分を決める **であろう。 だがわたしの霊魂は依然として修業と試練の中にある。 直訳すれば「各人は人間性の完全な型を帯びている」。 万人共通の一般的 人間性をいう。 すなわち「人間は死すべきもの」であるとか、「動揺してやまぬもの」であるとかがそれである。 forme enti re とは完全無欠の 典型(モデル)の意味に従来考えられているが、或る人はこれをアリストテレスの哲学の術語であって、すべての人間において同一である「本質」essence の意味だという。 専門家の間では「質料」mati re に対置される語として、「形相」と訳されている。 いずれにしても、「人間を知るには聖人君子というような特別なモデルを見るに及ばない。 平凡な熊公八公の生活の中からも道徳哲学は引出される。 自分の平凡な生活を描いて見せるのもそのためだ」というのである。 (c)世の著作者たちは、何かの特別な・外的な・特徴によって自分を人々に伝えている。 わたしこそ始めて、わたしの全体によって、つまり文法家とか詩人とか法律家とかとしてではなく、ミシェル・ド・モンテーニュとして、自分を伝えるのである。 もし世の人たちが、わたしがあまりに自分について語るといって嘆くならば、わたしは彼らが自分を考えることさえしないのをうらみとする。 (b)けれども日常このように引込み思案なわたしが、自分を公表して人々に知らせようと望むのはおかしくはないであろうか。 また、外見や形式があれほどに尊重推奨される世間に向って、生地のままの・単純な・しかもきわめて微力な・天性の結果をご披露するのは、果してもっともなことであろうか。 学問も技芸もなしに書物を作ろうとするのは、いわば石なくして石垣を築くようなものではあるまいか。 音楽家の幻想は芸術によって導かれる。 わたしの妄想は偶然によって導かれる。 だがわたしも次の理由でちゃんと規則にかなっている。 すなわち、なんぴともいまだかつてその専門の主題を、わたしがここでわたしの主題についてしたほど徹底的には、論じたこともなかったし、知ってもいなかったから。 つまりこの主題にかけてはわたしこそ天下第一の物知りであるから。 (c)第二に、いまだかつてなんぴとも、自分の主題にわたしほど深く徹しはしなかったし、その各部分やその結末をわたしほど細心に批判しはしなかったから。 そして (b)その著作において目ざした目的に、わたしほど的確に・十分に・到達しはしなかったから。 わたしは自分の著作を完成するためには、ただそこに忠実さを適用しさえすれば足りるのだが、その忠実さは、ちゃんと、最も真率純粋に、ここにある。 わたしは本当のことをいう。 いい飽きるほどにではないが、いおうと思っただけは言っている。 そして年をとるに従って、それを益々思い切っていう。 まったく習慣も、わたしのような老人にはお 喋 ( しゃべ )りの自由と、自分について物語るぶしつけとを許すようである。 ここにはわたしがしばしばよそで見るようなこと、すなわち、作者と作品とが食いちがうようなことは起らない。 「つき合って見るとあんなにも立派な人が、こんなにも愚劣な書物を書いたのか。 またこんな高尚な書物が、あんなつまらぬ者の手から生れたのか」などといわれる恐れはまったくないのである。 (c)平凡なことばかりいう男がめずらしい書物を書いたといえば、彼の器量と見えるものもどこからかの借り物であって、彼自らのものではないことを意味する。 物知りもあらゆるものを知ってはいない。 けれども、器量人は何事にかけても器量人である。 知らないことにかけても器量人である。 (b)ここではわたしとわたしの書物とは、両方が同じ歩調でゆく。 よそでは人が、著作を作者ときりはなしてほめたりくさしたりすることもできるが、ここではそうはゆかない。 作者にふれることは著作にもふれるからである。 作者を知らないで著作を判断する者は、わたしに損をさせる以上に御自身損をなさることであろう。 著作だけでなく、作者までも知っていただけるならば、わたしは完全に満足するであろう。 分別ある御仁ばかりでなく世間一般のかたがたも、その称賛の中に「彼にもう少し学問があったならそれを利用することもできたであろうに」とか、「もう少し記憶にめぐまれていたらよかったのに」とか申し添えて下さるなら、それこそ望外のしあわせである。 ここにわたしは、わたしがしばしば次のようにいうのを、すなわち、「わたしは後悔することが稀である」とか (c)「わたしの良心はみずからに満足している。 それが天使の・もしくは馬の・良心であることにではなく、一人の人間の良心であることに」とか (b)言うのを、おゆるし願う。 そしてそれに、相変らず次の繰返し句をつけ加えたい。 それはお世辞の繰返し句ではなく、純真な・心からの卑下の・繰返し句で、すなわち「わたしは尋ねる者・ 識 ( し )らない者・として語っているのだ。 決定をするときもただ一般の適法な信仰にもとづいてするのだ」というのである。 わたしは決して教えない。 ただ物語るのである *。 キリスト教の悔い改めが形式的で意味なきを指摘するのがこの章の目的。 人々の反感をそそらない不徳、完全な判断を持った人たちに告発されない不徳は、本当の不徳ではない。 まったく、不徳というものは、きわめて明瞭な醜悪と不都合とをもっているのである。 だから、「不徳は主として愚と無知とから造り出される」という人こそ、おそらく正しいであろう。 人がそれと意識しながらもそれを憎まないでいられるなどということは、とても考えられないことである。 (c)悪意はみずからの毒素の大部分を吸い込んで、みずからその毒にあたる。 (b)不徳は肉の中の 潰瘍 ( かいよう )のように、心の中に後悔を残す。 そのために、心は自らをかきむしり血にまみれる。 まったく理性は、他のもろもろの悲哀や苦痛を消す代りに、かえって悔恨の悲痛を生むのである。 しかもこの悲痛は、内部から生れるだけに余計辛いのである。 ちょうど熱病の寒さ熱さが、外部から来る寒暑よりも辛いのと同じことである。 わたしはたんに理性と自然とが非とする不徳だけでなく、人間の意見が作りあげたそれらをも(それぞれ程度は違おうが)、すべて不徳と見なすのである。 よしそれが誤った考え方にもとづく意見であっても、法規と習慣とがそれを支持しているかぎり、それが不徳とするものはやはり不徳と見なさざるを得ないのである。 同様に、 善行 ( ボンテ )〔徳ないし親切〕にして、よく生れついた天性を喜ばさないものはない。 実にそこには、善を行うという何かしらうれしい気持があって、我々の心のなかをよろこばすのである。 そこには良心の満足に伴う一種の高貴な誇りがあるのである。 何のはばかるところもなく平然として不徳な行いをしている人は、少しもびくびくせずにそれができているのかも知れないが、到底善行に伴うあの楽しさと満足とをもつことはできない。 あんなに腐敗した当世の悪風にも自分は決して染まってはいないぞと感ずることは、決して小さな喜びではないのである。 いや、「人はわたしの霊魂の奥底まで見すかしても、わたしには人を悲しませたり傷つけたりした罪も、人を恨んだり 嫉 ( ねた )んだりした罪も、法にもとって世をそこなった罪も、改革騒乱に関与した罪も、またたんに約束をたがえた罪さえも、ないことを知るであろう。 いや、当世のルーズな風潮が世の人に何を許し何を教えたにしても、ただわたしだけは、未だかつてフランス人の財宝にも財布にも手をかけたことがなく、戦時にも平時にもただ自分の金だけで生活した。 金も払わずに他人の労働を利用するようなことはついぞ決してしなかった」と、心の底で言いうることは、すばらしいことだ。 こうした良心の証言こそまことに喜ばしい。 こういう自然な喜びこそ、我々にとって大きな賜物であり、決して我々に欠けることのない唯一の報いである。 徳行の報いを他人の賞賛の上に築き上げようとするのは、あまりにも不確実な基礎を選ぶことである。 (c)特に当世のように人心腐敗して無知な時代にあっては、民衆の好評はむしろ有害である。 何がほむべきものであるかをしらべることを、そもそも君は誰にゆだねるのか。 死んでもわたしは、毎日世間の人たちが自画自賛しているあのような型の善人にはなりたくない。 昨日の不徳は今日の習わしとなれり (セネカ)。 わたしの友人の誰彼は、ときに心を開いてわたしを叱責しようと企てた。 それは彼らの発意によることもあれば、わたしの求めによることもあった。 いわばそれは一種の奉仕であって、よくできた霊魂にとっては、たんにそれが有益であるからばかりでなく、またそれが甘美であることによっても、友愛がなすすべての奉仕を越えたものである。 わたしはそれを、常に礼儀と感謝との両腕を大きくひろげて受け入れた。 けれども、こんにち正直にいうならば、わたしは彼らの非難や賞賛の中に、しばしばたくさんの見当ちがいを見出した。 むしろ彼らのいわゆる善行に従わず、彼らのいわゆる悪いことをした方が、よかったろうと思うくらいである。 (b)特に我々のように自分だけにしか見られない隠れた生活を営む者は、模範を自分の内部に設け、これによって自分の行為を批判しなければならない。 これによってときには自分を愛撫しときには自分を叱責しなければならない。 わたしは自分を裁判するのに、自分の法律と自分の法廷とをもっている。 そして、よそに訴えるよりもそこに訴える。 勿論わたしは、他人によっても自分の行為を抑制するが、これを拡張するにはただ自分だけによる。 君が卑怯残忍な男であるか忠誠敬虔な男であるかを知るのはただ君だけである。 他人には君は見えない。 彼らは不確かな推量によって察するだけである。 彼らには君の技巧は見えても、君の本性は見えないのである。 だから、彼らの宣告は気にしないで、君自らの宣告をきくほうがよい。 (c) 君みずからの裁判にこそ訴うべけれ (キケロ)。 徳不徳に対するおのれの良心こそ尊し。 それをおきて何物もなし (キケロ)。 (b)だが、「後悔は罪悪のすぐ後からやって来る」とよくいわれるが、それは完全に 鎧 ( よろ )われている罪悪、すなわち我々のうちにまるで自分の 棲家 ( すみか )にいるようにがんばっている罪悪には、あてはまらないようである。 不意に我々に現われる不徳、我々が熱情にかられて犯す不徳は、これを咎めこれに逆らうことができる。 けれども長い間の習慣によって、強硬な意志の中にしっかりと根をおろし 錨 ( いかり )をおろしている不徳にいたっては、とうてい逆うことはできないのである。 後悔はけっきょく、我々の意志の取消し、我々の思想の反駁にすぎず、ただ我々を右に左に引きまわすだけである。 或る男には、過去の徳と節制までも後悔させたことすらある。 (ホラティウス) 独りでいるときまで秩序を失わない生活こそ稀代の得がたい生活である。 人は誰でも狂言に加わり、舞台の上で紳士淑女を演ずることができる。 だが、すべてが我々にゆるされすべてが隠れて見えない内部において、その胸の中において、規則にかなっていることこそ肝腎なのだ。 これに近い段階とは、自分の家において、自分の日常の行為において、すなわち誰に気兼ねもいらない行為、何らの思惑も何らの技巧も交っていない行為において、規則ただしくあることである。 だからビアスは、すぐれた家庭の状態を描いてこういった。 「よい家庭の主人は、ただ独り家にいるときも他人の眼を意識せず、家の外にいて法律と世間の批評とを恐れるときと、まったく同様にあらねばならない」と。 またユリウス・ドゥルススが、「三千エキュ下さればお邸がこれまでのようにお隣りからのぞかれないようにして差上げましょう」といった職人たちに向って、「六千エキュくれてやるから、皆が四方八方からのぞき込めるようにしてくれ」といったのは、誠に立派な言葉だと思う。 人がアゲシラオスの日常について尊敬をもって語るところによれば、彼は旅に出るといつも寺院に泊って、人民および神々に、その私の行為を示したということだ。 或るものは世間からはすばらしい人物と思われているが、妻や下僕は彼の中にこれといって別に変ったものも見なかった。 家内の者どもから賞賛された人たちはきわめて少ない。 (c)なんぴとも、自分の家においてばかりでなく、自分の郷里においても、予言者でなかった。 これは歴史が実証するところであるが、つまらない事柄にかけても同様である。 実際次の卑近な実例の中にも、偉大な人たちの場合がそっくり見られるのである。 わがガスコーニュの土地では、皆がわたしの著作が公にされたのを見ておかしがっている。 わたしに関する世間の評判は、わたしの家から遠く離れれば離れるほど高まった。 ギュイエンヌ州ではわたしの方から印刷屋に払うのだが、よそでは向うから金をくれる。 こうした事実をたのんで、生きてこの世にいる間は隠れて暮し、死んでいなくなってから世に重んぜられようと望む人々も出て来るのだ。 だがわたしは、死後の評判なんかほしくはない。 わたしは世間から分前を得ようと思えばこそ、世間に打っても出るのだ。 死んでしまったら、後は世間がどう言おうとかまいはしない。 (b)人々は公の儀式から帰ってくる人を、感嘆しながらその門口まで送ってくる。 と、その人は官服とともにお役目をぬぐ。 そこで彼は、さきに高く昇っただけそれだけ低く下に落ちる。 その家の内はと見れば、何もかも乱脈で下卑ている。 そこに規律 *がある場合も、こういう卑近な私の行為の中にそれを見出すのには、よほど鋭敏な特別の判断がいるのである。 それに秩序というものは映えない目立たぬ徳である。 爆破孔にとびこむとか、使節の大任を果すとか、人民を治めるとかいうことは、目ざましい行為である。 小言をいったり笑ったり、売ったり買ったり、愛したり憎んだり、穏やかにまたふさわしく家族のものや自分みずからと語ったり、ふしだらもせずまた自分をいつわることもないというのは、それこそかえって稀有で困難な事柄だが、しかしいっこう見映えはしない。 だから隠遁の生活は、何といっても、世間的な諸生活同様の・否それ以上の・辛い骨の折れる義務を背負っているのだ。 (c)私人は、アリストテレスのいうように、官にある者ども以上に徳に対して困難で崇高な奉仕をしているのだ。 (b)我々が異常な場合に備えるのは、良心のためではなくむしろ栄誉のためである。 (c)だが栄誉にいたる一番の近道は、我々が栄誉のためにするところを良心のためにすることであろう。 (b)だから、アレクサンドロスがその舞台の上で演じて見せる勇猛心は、どうもあのソクラテスがその低く隠れた行いにおいて示したそれに、はるかに及ばないように思う。 わたしは、ソクラテスをアレクサンドロスの位置において見ることは容易にできるが、アレクサンドロスをソクラテスの位置において見ることは到底できない。 前者に向って「何ができるか」と問うならば、「世界を従えること」と、答えるだろう。 同じように後者に問うならば、「人間の生活をその持って生れた本性にふさわしくすること」と、この人は答えるであろう。 この方がより一般的で重んずべき正しい学問である。 霊魂の価は高く行くことにはなく、秩序正しく行くことにある。 * この規律 r glement という語は、前々のパラグラフの中に 規則にかなっているr gl とあるのをうけている。 そして一行目に秩序 ordre という語が出てくる。 この ordre, r gle, r glement, r gler(規整する・ととのえる)等の語は、いずれもモンテーニュの理想を示した語で、彼は突発的な手柄、偉業をほめない。 それよりも理性にかなった・いつも変動のない・整然たる生活をほめるのである。 (c)偉大な霊魂は、偉大な身分のうちに見いだされず、中くらいの身分のうちに見出される。 我々を内面において判断し試みる人々は、我々の公的行為の輝きを大して尊重せず、そんなものは泥深い所からほとばしり出たしかも細い走り水にすぎない、と見ている。 ところが同じ場合に、我々をあの勇ましげな外観によって判断する人々は、我々の内心までもそれと同様に勇ましいものと結論する。 そして自分たちのと同じ平凡な性能が、自分たちの眼の及ばないあのびっくりするような性能と、相並んで存在することを知らない。 それで我々は、デモンに奇怪な 形相 ( ぎょうそう )を与えるのである。 だから誰でも、チムールには釣り上った眉、大きな鼻の穴、恐ろしい顔つき、度外れた身の丈を与えないではいられないのだ。 だが、結局それは、人が彼の雷名を聞いて想像に見た姿にすぎないのである。 もしだれかがわたしをエラスムスに引き合わしてくれたら、わたしは彼がその下僕や宿のおかみさんに言ったことまでも、ことごとく金言格言と思わないではいられなかったろう。 我々にはその態度や才能によっていかにもえらそうに見える大統領などよりも、その便器に・否その妻に・またがっている職人さんを想像する方が、ずっと柄にあっている。 どうもああいう高いところにお坐りになる方々は、我々みたいな下品な生活はなさらないようである。 (b)不徳な人々も何か外からの衝動をうければしばしば善い行いをすることがあるように、有徳な人々もまた悪い行いをすることがある。 だからかれらを、その落ちついた状態にあるときに、たまにはそういうこともあるとすればかれらの霊魂がその家に在る時に、判断しなければならない。 少なくとも彼らの霊魂が、比較的うちくつろいで生れながらの態度に近くあるときに、判断しなければならない。 生れつきの傾向は教育によって助成され強化されるけれども、変えられたり抑えられたりすることはあんまりない。 今日ではいろいろの天性が自分に反対の躾をうけながらもそれを突抜けて、あるいは徳へあるいは不徳へと 外 ( そ )れて行った。 (ルカヌス) こういう先天的な性質は根絶されない。 ただおおいかくされるだけである。 ラテン語はわたしにとっていわば生れつきの言葉である。 それはフランス語以上によくわかる。 だが四十年来、わたしはもうまったく、語るのにも書くのにも、それを用いたことがない。 ところがそれにもかかわらず、突然に極度の感動におちいったときには(わたしは今までに二、三回そういう目にあった。 その一度は、父がまったく健やかでありながら突然気を失って、わたしの腕に倒れかかったときである)、わたしはいつも、腹の底から、まず第一にラテンの言葉を発したのである。 (c)天性が長い間の習慣にもかかわらず、突然せきをきってほとばしり出たのである。 (b)このようなことは他の人々にもしばしば見られる。 こんにち新しい考え方によって世の風潮を矯正しようと努めた人たちは、表面に現われた不徳は改革したが、本質的な不徳の方はそっくりそのままにしている。 まさかそれを増長させる気ではあるまいが、どうやらそのおそれがないでもない。 この気ままな外面的改革の方が労少なくして効果が多いから、人はとかくこれだけやってのけ、ほかの善行はしないですます。 つまりそうやって、安価に、内部に深く巣食っている生れながらの幾多の不徳を満足させるのである。 ほんの少し、我々がめいめい経験するところを見てごらん。 誰でも、少しく己れ自らに耳をかたむけるならば、自分のうちに独自の性分、主導的な性分があって、教育や自分の本性に反するもろもろの情欲の嵐と抗争しているところを発見しないものはない。 だがわたしは、ほとんどゆすぶられている感じはしない。 あたかもどっしりと重い物のように、ほとんど常に自分の席に坐っている。 わたしの許にいないまでも、常にそのごく近くにいる。 わたしの 放縦 ( ほうしょう )も、わたしをひどく遠くにはつれて行かない。 そこには何も極端な奇怪なものがない。 実際わたしは、すぐ健康で元気な自分にかえる。 真に現代人に共通な悪弊として非難すべきことは、彼らの隠退生活さえもが腐敗と汚濁に満ち満ちていること、彼らの 贖罪 ( しょくざい )の観念までが混迷しており、彼らの悔悛までが彼らの罪過そのものとほとんど同じに病み腐っていることである。 或る人たちは、或いは生れつきの執着によりあるいは長い間の習慣によって不徳に貼り付いているために、今ではもうその醜悪を感じなくなっている。 また別の人たちにおいては(わたしも同じお仲間だが)、不徳を重たく感じてはいるが、快楽やその他の理由をもってその埋め合せをつけている。 ある代償を得てそれを許しそれに耽っている。 いよいよもって不徳卑怯なやり口だが、もしかすると我々は、その罪と快楽との間にあまりにも大きな重さのちがいを想像するのではないか。 すなわちそれで、目的のためには手段をえらばずとでもいうように、そんなに大きな快楽があるのなら、少しくらいの罪過は当然かんべんしてもらえそうなものだと、思っているのではないか。 掻 ( か )っぱらいのような、ほんの出来ごころで、罪というにはあまりにもささやかな快楽ばかりでなく、婦人との接触のように、罪の行使そのものの中にある快楽までも、同じように考えているのではあるまいか。 この場合は、誘惑がとても激しくて、ときにはとても我慢ができないものだと、皆がいう。 ついこの間わたしは、身内の者の領地であるアルマニャックにいた折のことだが、皆の者が「ぬすっと」とよびなす百姓にあった。 彼は次のようにその一生を物語った。 すなわち、彼は乞食の子と生れ、地道な働きでパンを得るくらいではとても貧乏を免れることはできないと思ったので、とうとう泥棒になる決心をしたのだった。 そして若い間じゅう、安全にこの職業を行ったが、それは強い体力のお蔭だった。 まったく彼は、他人の田畠から作物を刈り取ることを専門としていたのだが、ずいぶん遠いところから、しかも一人の男がとても一晩のうちに背負ってゆけそうにないほどのものを、盗んで来たのである。 それに、人に与える損害を均等に分散するよう心掛けていたから、その損害はひとりひとりにはさほどにひどくなかったのである。 その男は今ではもういい年であるが、百姓あがりとしては相当な金持になっている。 みんな泥棒稼業のお蔭であると自ら正直に白状している。 そして言うには、「だから、こうしたかせぎのために神様の罰があたらないように、わたしは毎日、かつて自分が盗んだ者の相続者に恩恵をもって報いようと心がけている。 もし自分一代でそれを全うしえない場合は(まったくそれは一ぺんにはできない仕事である)、その与えた損害の額に応じて(それはただ彼だけが知ることであるが)、自分の相続者に弁済させるつもりでいる」と。 嘘かまことか知らないが、とにかくこの告白によって見れば、この男は窃盗を不正な行為と見、これを憎悪してはいるのだが、しかし貧乏ほどにはこれを憎んでいないのである。 盗んだことについてはきわめて単純に後悔しているが、貧乏がそれによって埋め合され補償される限り、大して後悔はしないのである。 これは誠に不思議な話で、我々を不徳に合体させ・我々の悟性までもこれに慣らす・あの習慣のせいとも言えないし、また我々の霊魂を急襲的に攪乱し盲目にするところの・我々を判断もろとも一挙に不徳の権力下に突きおとすところの・あの情念の突風ともちがうのである。 わたしはわたしの行うところを、いつも全身をあげて行う。 全身ひと塊りとなって進む。 わたしの理性にかくれて見えないような挙動はほとんどしない。 一つとしてわたしのすべての部分の賛同によって導かれないものはない。 そこには分裂もなければ内訌もないのである。 だからわたしの判断は、わたしの一挙一動の受ける罪科あるいは賞賛をそっくり引きうける。 そしてその一度引き受けた罪科は、それを何時までも受け続ける。 まったくわたしの判断は、その誕生以来ほとんど一様で変らない。 同じ傾向、同じ道程、同じ力を持ちつづけている。 そして一般的意見にかけては、わたしは少年時代からいつも自分の居なければならない場所にとどまっている *。 * これは第一巻の解説以来訳者のしばしば述べてきたことを支持する。 モンテーニュは人間を波のように変りやすいものとはいっているが、彼自身そう無定見で始終動揺していたわけでは決してない。 根本的な意見は前後を通じて自らここにいっているように変ってはいない。 中には急激迅速になされる罪がある。 それはここでは論じまい。 けれどもそれとはちがって、熟考に熟考を重ねた上いく度も反復される罪、あるいはその人の体質から来る罪、 (c)また職業から来る罪、 (b)にしても、それらを有する者の理性や意識が、絶えずそのように意欲するのでなければ、そう長い間同一の心の中に居すわっているとは考えられない。 だから一定の時機に至って後悔をしたからと言って、それは自慢にはならない。 そんな後悔を到底わたしは本気にはできない。 (c)わたしはピュタゴラス派の、「人間は神々の像に近づいてその託宣をきくとき別の霊魂をとる」という説にはくみしない。 ただしそれが、「人間の霊魂もそのときだけはよそゆきのもの・別のもの・とならざるをえない」という意味ならよい。 人間の霊魂はもともとそのようなお勤めにふさわしい清浄潔白なものではないのだから。 (b)人々はあのストア派の教訓のまるで正反対を行っている。 なるほどその教訓は自分の中に認めるところの不完全と不徳とを正せとは命じているが、それを悲しみくやむことはむしろ禁じているのだ。 ところがこんにちの人々は、心の中にさもさも大きな遺憾と悔恨とをいだいているかのように見せかけているばかりで、改良改善の実はもちろんのこと、中止中絶をすら示しはしない。 まったく病をおろさない限り、それは治癒ではないのである。 悔悟の重みが天秤皿にかかるならば、一方罪の重みはしぜんと軽くなるであろう。 およそ信心くらい真似しやすい特質はまたとあるまい。 行状と生活とをそれにかなわせないですむものなら。 信仰の本質は微妙幽玄であるが、その外観の方は容易で壮麗である。 わたしについていえば、全体として別人になりたいと願うことはあろう。 わたしというもの全体をくさしきらうこともあろう。 わたしの全体が改革されるよう、わたしの天性の弱さが許されるようにと、神に哀願することもあろう。 けれどもそれを後悔と呼んではならないと思う。 自分が天使でもカトーでもないことを不満に思うことは後悔とはいえまい。 わたしの行為は、わたしの本質に従いわたしの天賦に相応している。 それ以上のことはわたしにはできない。 実際「後悔」という語は、我々の力の及ばない事柄には本当はあてはまらないのだ。 さよう、むしろそれは「遺憾」というべきなのだ。 わたしは自分のよりも遙かに高く遙かに整った数限りない天性を想像する。 けれどもそうしたからとてわたしの性能がよくはならない。 わたしの腕や心にしても、他人の強い心や腕を想いいだいたからといって、それだけ強くはならないではないか。 もし我々の振舞いよりも高貴な振舞いを想像し願うことが、自分の振舞いに対する後悔をうむならば、我々は我々の最も罪のない行為をすら悔いなければならないだろう。 なぜなら我々は、より優れた資性においてはそれらがさらに大きな完全さと品位とをもって果されるであろうと判断し、我々もまたあのようにしたいと願うであろうから。 今老年に達して自分の若かった頃の行状をかえりみると、わたしは一般に、わたし相応の秩序に従って生きて来たと思う。 あれがわたしのせい一杯のがんばりである。 自慢ではないが、同様の場合にあえば、今でもわたしは同じように振舞うであろう。 わたしは黒ぶちではなく、全身まっ黒なのである。 わたしは浅薄な・いい加減な・礼式の・後悔を知らない。 ほんとの後悔なら、わたしがそれを口にする前に、それは四方八方からわたしを突くはずである。 神様が深くまた 普 ( あまね )くわたしのうちを見とおされるように、わたしの腹わたを締め苦しめるはずである。 仕事の上では、やり方がまずくてわたしは幾多の幸運を取り逃がした。 だがわたしの考えの方は、決して見当はずれでなく、いつもその時の事情にかなっていた。 その流儀といえば、いつも一番容易で安全な道を選ぶということである。 いま昔とった決断をふり返ってみても、わたしはよくも自分の主義を守って、それぞれの問題の性質に応じて、賢明な進退をしたものだと思う。 これから千年たったとて、同じような場合に出あえばやはり同じようにすることであろう。 わたしは現在から見てそれがどうだというのではない。 ただあのように決断したその時に、それがどうであったかと言っているのである。 (c)どんな決心も、それが効果をあげるかあげないかは、時の運である。 情勢や事件は絶えず変動するからである。 わたしも今までに幾度か重大な失敗をやったが、それはよい判断を欠いたからではなく、よい運を欠いたからである。 我々のたずさわる物事には、秘密な・そして予知しがたい・部分がある。 特に人間の天性の中には、黙った・あらわれない・ときにはその所有者にさえ知られない・ただ思いがけぬ機会に目を覚ましあらわれる・もろもろの性質がある。 わたしの知恵にそれが洞察しえず予言できなかったからとて、わたしは少しもわたしの知恵を不満には思わない。 わたしの知恵の働きがその限界をでず、結果がわたしを打ち負かしたのだ。 (b)結果がわたしが退けた決心の方にくみしても、それはどうにも仕方がない。 わたしは自分に食ってはかからない。 わたしの運は責めても、わたしのしたことはとがめない。 つまりそれは「後悔」とはいわれないのである。 フォキオンは、アテナイ人に或る意見を与えたが聞かれなかった。 しかしことは彼の予想に反して隆昌に向ったので、ある人が彼に、「どうだフォキオン、ことがこうもうまくいったのを満足に思うかね」とたずねたところ、「いかにもこうなったのは満足だ。 だがあのようにいったことを、わたしは少しも後悔していないよ」と答えた。 わたしの友達がわたしに意見を乞うことがあれば、わたしは自由にはっきりとそれをいう。 大概の人々がするように、「物事は運次第だ。 わたしの考えに反する事態も生じよう。 そうなると皆はわたしの意見を責めるにちがいない」などと心配はしない。 そんなことは私の知ったことではない。 まったくそれは責める方が間違っているのだ。 ただわたしは、友人としてこの務めを拒んではならないと思えばこそ言うのである。 (c)わたしは自分の過失すなわち不運について、自分以外の者にも食ってかかる必要はない。 まったく、わたしが他人の意見を用いることは、礼儀による場合を除けばごく稀なのである。 専門的な知識や実際についての知識を必要とする場合は別であるが、ただ判断さえ用いればよい事柄に関しては、他人の理由はわたしを支持するには役立つけれども、わたしを翻意させることはほとんどない。 わたしは他人の理由を、すべて有難く謹んで承る。 けれどもわたしが覚えている限り、今日にいたるまで自分の理由だけしか信ずることがなかった。 わたしに言わせれば、わたしの意志を引きまわすのは蠅とアトムだけである。 わたしは自分の意見もたいして重んじないが、他人の意見も同じようにあまり重んじないのである。 運命が公平にわたしに報いてくれる。 わたしは人の意見もきかないが、自分の意見を人に押しつけることは更に少ない。 わたしが意見を乞われることははなはだ少ないが、それが信じられることはなおさら少ない。 公私何れの企てにしても、わたしの意見によって立て直されたり引込められたりしたものがあったとは思われない。 運命によっていくらかわたしの意見に引きつけられた人々も、やがて間もなく全然別の考え方に引きずりまわされることが多かった。 わたしは自分の休息の権利を自分の権勢の権利と同様に大事に考える者であるから、むしろそうである方がありがたい。 人がわたしをほったらかしてくれるのは、わたしの流儀にかなっている。 わたしの流儀とは、全然わたしのうちに隠居安住することである。 他人の問題から解放され彼らの面倒を見てやらないですむのはまことに有難いことである。 (b)何事に限らず、すんでしまった以上は、それがどのようであったにせよ、わたしはほとんどくやまない。 まったく、「それは始めからそうなるべきであったのだ」という考えが、わたしを苦悩から解放するのである。 見たまえ。 物事はみな宇宙の大きな流れにただよい、ストア派のいわゆる諸原因の連鎖の中に巻きこまれているではないか。 君の思想は、願って見ても想って見ても、物事の一点をだに動かすことができないではないか。 万物の秩序がひっくり返らない限り、過去や未来が、ひっくり返らない限り、どうにもならないことではないか。 それにわたしは、年齢のせいで時折いだくあの後悔を憎む。 むかし「年とったおかげで肉欲から解き放たれた。 有難いことだ」といった人があるが、わたしはそれとはちがった考えでいる。 不能がどんな恵みを与えるにもせよ、とてもわたしは不能にむかって感謝する気にはなれない。 (c) 神意 ( みこころ )と 神業 ( みわざ )とは決して矛盾することあるまじ。 されば不能がめでたきものの中に数えらるるはことわりならず (クインティリアヌス)。 (b)我々の欲望は年をとると稀になる。 深い飽満があとで我々を捉える。 そうしたことの中には少しも良心の働きは見られない。 それは悲観と衰弱とが、よわよわしいカタル性の徳を我々に刻みつけているだけのことである。 我々はあまり完全に自然の変更に身をまかせて、我々の判断までも鈍らせてしまってはいけないのだ。 昔わたしは、青春と快楽とのために逸楽の底にひそむ不徳の顔を見のがしはしなかったが、現在もまた、年齢のせいで嫌気を感ずるようにはなったけれども、それでも不徳の中にかくれた逸楽の顔を見のがすことはない。 今はもうそこにはいないけれども、わたしはそれを、あたかもなおそこにあるかのように判断する。 (c)強く・注意深く・ゆすぶって見ると、 (b)わたしの理性は、わたしが最も奔放であった年頃に持っていたそれと同じなのである。 ただそれが、おそらくわたしが年をとっただけ、それだけ衰え鈍っているだけである。 (c)またそれは、今わたしの肉体的健康を害しないために、わたしがこの快楽にはまり込むことをさまたげるけれども、わたしの精神的健康のためには、今も昔どおりそれを禁じたりはしないであろう。 (b)わたしの理性が隊列の外にあるところを見れば、わたしはそれが昔よりも勇壮であるとは思わない。 ただわたしの感ずる誘惑があまりにも衰え弱っているので、今ではもう理性が強くそれに抵抗するまでもないのである。 わたしはただ手を伸ばすだけで誘惑をうち払うことができるのである。 だがもう一度この理性の前に、昔の淫欲を立ちむかわせて見たらどうだろう。 理性にはもう、昔のようにこれに反抗するだけの力はないのではあるまいか。 それは少しも昔とちがった独自の判断をしている様子も見えないかわりに、少しも新たな知恵を示してもいない。 だから、回復期のように見えても、それは呪われた回復期 *なのである。 * 病気の回復期には一種の清涼感がある。 老人の理性も、ようやく色欲物欲を解脱してちょっと道徳的に善くなったように見えても、要するにそれは病後の清涼みたいなもので、決して若いときのそれより改善されてはいないというのである。 それで、呪われた回復期、呪縛にかかって手も足も出ない回復期 convalescence mal fici e だというのであろう。 (c)病気のおかげで理性の健康を得るなどとは、何というなさけない療治であろう! 我々が健康になるのは我々の不幸のおかげであってはならない。 それは我々の理性が幸福な状態にある結果でなければならない。 いじめて見ても悲しませて見ても、人はわたしに何もさせることはできない。 ただそういう責苦を呪わせるだけである。 そんなのは 鞭 ( むち )で打たれなければ目も覚めないような人たちにふさわしい方法である。 わたしの理性は健康なときほど元気に働く。 それは快楽を消化するときより苦痛を消化するときの方が、むしろよそに気をとられて本来の働きをわすれる。 朗らかな天気の日には物が一層はっきりと見える。 健康の方が病気よりも、より張り切って・より有益に・わたしに忠告する。 わたしは健康のただ中にあった時代に、できるだけわが改善と整頓との方向に進んだ。 老いさらばえた自分の悲惨と不幸との方が、健康で元気溌剌としていたわたしの全盛時代よりも好もしいと思わねばならぬなら、またわたしがわたしの在ったことによってでなく、わたしが在ることをやめたことによって、尊敬されなければならないとすれば、それは恥ずかしくまたねたましいことである。 わたしの考えでは人間の至福は幸福な生にあって、決してアンティステネスがいったように幸福な死にあるのではない。 わたしはろくでなしの首と胴体に哲学者の尻尾をくっつけた怪物になろうとは期待しなかった。 またこのけちな端っこが、わたしの生活の最も美しく最も完全で最も長かった部分を取消したり打ちけしたりしてくれるようにとも期待しなかった。 わたしは自分の全部を一様に示したいと思う。 もしもう一度生きなければならないならば、わたしは今まで生きて来たとおりに再び生きるであろう。 わたしは過去もくやまなければ将来も恐れない。 いや、もし思い違いでないならば、わたしは内も外も並行して生きて来た。 わたしの肉体的状態が常にその時期相応のコースをとったことこそ、わたしが自分の運命に対して持つ主なる感謝の一つである。 わたしはわが若葉を見、花を見、果実を見、今や冬枯を見ている。 誠に幸いである。 だってそれこそ自然なことなのだから。 わたしは今、すこぶる心静かに現在の病苦に堪えている。 なぜなら、それはその来るべき季節に来たのだから。 それはわが過去の生活の長い幸福をいよいよなつかしく思いおこさせるから。 同様にわたしの知恵も、結局両方の時期を通じて同じ背丈であるのかも知れない。 だがどうも昔の方がずっと多く手柄をたてたし、今よりもずっと優雅であったし、若々しく元気で自然のままであったと思う。 ところが今はそうではない、この通り、かがまった不機嫌な苦労なものになってしまった。 だから今さらわたしは、あの 時偶 ( ときたま )の苦しい改心などをしようとは思わない。 (b)〔本当の改心は〕神様 *が我々を心の底から動かすのでなければならない。 我々の良心が我々の理性の強化によって自分で自分を改善するのでなければならない。 我々の欲望の衰弱によってであってはならない。 快楽は老人のただれ 霞 ( かす )んだ目にはそう見えても、決してそれ自体色がうすれてもあせてもいないのである。 人は節制をそれ自体のために、またそれを我々に命じたまう神様への畏敬のために、愛さなければならない。 純潔もまたそうである。 カタルが我々に与えるところのそれ、またわたしが 疝痛 ( せんつう )のおかげでもっているところのそれは、純潔でもなければ節制でもない。 人がもし快楽を見ないならば、それを知らないならば、その魅惑をも魅力をも・その最も人をひきつけるところの美をも・見も知りもしないならば、それを蔑視しそれを抑圧しているといって威張ってはいけない。 わたしはその美しさもその力も両方とも知っている。 わたしこそこの問題を論ずる資格がある。 けれども年をとると、我々の霊魂は若い時よりもずっと厭わしい病気や不完全にかかりやすいように思う。 わたしは若いときからそう言っていた。 当時人はわたしの 顎 ( あご )の下を見てあざ笑った。 わたしは灰色の 鬚 ( ひげ )がわたしの顎に信用を添えている今日、再びそう言う。 我々の気むずかしさや、現世の事柄に対する嫌悪を、我々は知恵と呼んでいる。 けれども正直にいえば、我々はさほどに不徳を脱してはいない。 ただそれらをとり代えているだけである。 しかもわたしの考えでは、より悪い不徳ととり代えているのだ。 愚かなよぼよぼの虚勢、くどくどしい繰言、あの針を含んだ非社交的な気分、取越苦労、自ら使うことのできない財宝をばかばかしく大切にすることなどはいうまでもなく、わたしはそこに、より以上の嫉妬と不正と邪念とを見出すのである。 老いは我々の顔よりも心に 皺 ( しわ )をつける。 いや、老いて酸味とかびとを帯びない霊魂は見たことがない **。 少なくともきわめて稀である。 人間は心身の両方をもって成長し衰退するのである。 ** これには例外がある。 モンテーニュその人がその一つである。 (c)ソクラテスの知恵や彼の処刑に関するいろいろな事情を見ると、わたしは彼がいわば相手の裏をかいて、わざと自分から死に赴いたのではないかと考えたくなる。 彼はその時すでに七十歳で、ようやくその精神の輝かしい働きも 萎靡 ( いび )しようとし、いつもの明敏さもようやく曇りかけていたのであるから。 (b)いかなる変化を、老いは毎日、わたしのたくさんの知人の上に行いつつあることか! それは強い病であって、自然に、知らない間に、我々に食い入る。 それが我々にになわせる不完全さを避けるためには、少なくともその進行の度を弱めるためには、たくさんの勉強と大きな注意とが必要である。 わたしはみずから、どんなに堀をほりめぐらしても、老いが一歩一歩とわたしに向って押しよせて来るのをどうしようもない。 わたしはできるだけ支える。 けれども、結局それがどこへわたしを押していくのかは、知る由もないのである。 最後 ( すえ )はどのようになるにしても、わたしは世の人が、どのような所からわたしが落ちるであろうかを見てくれれば、それで満足である *。 モンテーニュは自分の経験から出発して会話・社交・友愛というような問題を検討した上、教養あり実力ある紳士との交わり、美しい淑女との交わり、また古今の良書との交わりについて述べる。 すなわち我々は、ここにまず彼の理想とするオネトム honn te homme がどんなものであるか、またどのような女性を彼は理想としているかを知る。 理想の紳士については、第三巻第十二章に描かれたソクラテスの姿と第一巻第二十六章に描かれたアルキビアデスの姿とを参照されれば、一そうよくわかるであろう。 要するにそれは、第十七世紀のオネトムとはかなりその趣を異にしている。 すなわちそれは、近隣の人々と狩猟や建築や訴訟などについて話し合うばかりでなく、更に出入りの大工や植木屋とも親しむほどの人でなければならないのである。 その点、彼の理想ははなはだ平民的である。 それらの諸例を彼はプラトンやエピクロスから得ているのだが、この理想は、彼が第三巻第十三章に自ら述べているところを信ずれば、彼が幼少の時代、洗礼をうけた年頃から、ずっと近隣の百姓たちと親しくしていたことの結果でもあろう。 なお彼は、一生を通じて幾多の婦人たちと交遊があった。 彼の大きな章の四つがいずれもマルグリット・ド・ヴァロワを始め身分の高い婦人たちに献呈されているのでもわかる。 その女性観は、第三巻第五章における所論と併せよむことによって、いっそう完全に把握されよう。 この章では詩が婦人の読物として最もふさわしいといい、婦人の能力をほめているのか見くびっているのかわからないようないい方をしているが、第三巻第五章になると彼は断然男女を同列においている。 また会話交遊の規則に関しては後出第三巻第八章「話合いの作法について」を、良書に関しては第二巻第十章「書物について」を、オネトムの教育については第一巻第二十六章「子供の教育について」を併せよまれたい。 なお当章には、生かじりの学識と身についた教養との区別など、学問教育に関する問題も論ぜられている。 (b)あまりつよく自分の気分や気質に執着してはいけない。 我々にとって一番肝心かなめの力は、いろいろな習慣に順応できるということである。 唯一つの生き方にいやおうなしに拘束されているのは、「在る」のであって「生きる」のではない。 最も立派な霊魂とは最も柔軟で変通自在な霊魂である。 (c)ここに大カトーの尊い証拠がある。 彼の心はいかなる業にも等しく適応し得るほど柔軟なりき。 されば彼何を企つるも、人みな彼がもっぱらそのために生れ出でたるもののごとくに思いたり (ティトゥス・リウィウス)。 (b)わたしの流儀にわたしを仕込むことはわたしの勝手であるにしても、それに執着して後日それから離れることができなくなってもよいと思うほどに、立派な流儀というものはありはしない。 人生とは不同な・不規則な・いろいろな形をとるところの・運動である。 絶えず自分につき従うこと、いやあまりに自分の傾向にへばりついて少しもこれからはなれることが出来ず・少しもこれを曲げることができない・ようなのは、決して自分の友であることではない。 まして自分の主人であることではない。 むしろ自分の奴隷であることである。 わたしが今更こういうことをいうのは、わたしみずからが容易に自分の霊魂の執拗さから抜け出ることができないからである。 つまりわたしの霊魂が、通例何に関係してもこれに没頭せずにはおられないから、また緊張して全部を挙げてでなければ何一つできないからである。 わたしの霊魂はどんな些細な主題を与えられても、とかくそれを大きく引伸ばすから、結局全力を傾けて取っ掛らないではいられなくなるのである。 であるから、わたしの霊魂が何もしないでいることは、わたしにとって苦しいこと、いやわたしの健康を害することなのである。 大多数の精神は自分を元気づけ働かすために外的な材料を必要とするのだが、わたしの精神はむしろ自分を落ちつけ休ませるためにそれを必要とする。 勤労によりて閑居の不徳を避けざるべからず * (セネカ)。 まったく、わたしの精神が最も骨折るところの・その最も重しとするところの・研究は、独りで自分を研究することである。 (c)読書は、彼〔わたしの精神〕にとっては、むしろ彼をそういう研究からそらす仕事の一つである。 (b)彼〔わたしの精神〕に何か一つの思想が浮ぶと、彼は急に活気づき、縦横にその力を発揮し、ある時はその働きを力に向わせ、ある時はそれを整頓と優美とにむかわせ、 (c)自分自身をととのえ、抑え、強くする。 (b)彼〔わたしの精神〕は、みずから自分の性能を喚起するだけの力を持っている。 自然は彼〔わたしの精神〕にもやはり彼の役に立つような彼の材料、創意や判断を示すに足るだけの彼の主題を、十分に与えたのである。 * モンテーニュは何事にも集中没頭できない、不徹底な、非活動的な、冷淡な、怠け者であるかのような伝説の主人公となっているが、以上の数行は正しく彼を理解する上に読み落してはならないことである。 (c)瞑想は、自分を試みてから力一杯にそれを用いるすべを知る者にとっては、真剣な充実した研究である。 わたしはわたしの霊魂にいろんな物を詰めこむよりは、それを鍛える方が好きだ。 自分の思想と語りあうことほど、それが宿る霊魂次第で、頼りない業ともなれば力強い業ともなるものはない。 最も偉大な霊魂は、それを自分の天職とする。 それらの霊魂にとりて生きることはすなわち考うることなり (キケロ)。 自然もまた特別にこの業に目をかけた。 これほど我々が長くたずさわることのできるもの、またこれほど容易にこれほど日常に我々が没頭しうるものはないではないか。 それはアリストテレスによれば神々の営みであって、そこから神々の幸福も我々の幸福も生れ出るのである。 特に、読書は、わたしがさまざまな問題によってわたしの推理を喚起することに、わたしの記憶力ではなしにわたしの判断を働かすことに、役立っている。 (b)だから力も何もこもらないただの会話は、ほとんどわたしの注意を引くことがない。 淑 ( しと )やかさや美しさが、重味や深味と同様に、またそれ以上に、わたしをみたし捉えることは事実である。 しかし右のいずれでもない会話においてはわたしは居睡りをするから、それにはわたしの注意のうわべだけしか貸さないから、わたしはそういう下らないくどくどしい言葉やそらぞらしいお世辞の言葉などをきいていると、往々にして子供にさえ笑われそうなばかげた寝言やたわ言をいったり答えたりする。 あるいはいよいよつまらなそうに、また無礼にも、執拗な沈黙を守ったりする。 わたしには、わたしをわたしのうちに引籠らせる・ぼんやりと夢みるような・癖がある。 また幾多の普通平凡な事柄を、ばかみたいに、また子供みたいに、わたしは知らないのである。 実にこの二つの特質・ぼんやりと無知と・のおかげで、わたしもまたいつの間にか、世間の誰彼と同じように、ばかばかしい五、六篇の逸話の主人公に祭り上げられてしまったのである *。 * 前註に言ったように、モンテーニュの周囲には幾多の伝説があって、彼の真正の姿を歪曲している。 彼の伝記は、彼が辛抱強い学者であり著作家であると共に、誠実で熱心な行動人であったことを証明している。 さてわたしの話を続ければ、こういう気むずかしい性格であるために、わたしは人々との交遊においてなかなかやかましやである。 わたしは、人々を一粒選りにしないではいられないし、また皆と行動をともにするのをおっくうがる。 だが我々は庶民と共に暮し、彼らと交渉をもつ。 もし彼らとの交際が厭わしいならば、また下等平凡な霊魂と折り合うことをさげすむならば、凡俗な霊魂は往々にして最も鋭敏な霊魂と同様に整っているのだから( (c)一般の無知と折り合わない知恵はすべて妙味がない)、 (b)我々はもう、自分の事柄にも他人の事柄にも、かかわり合わないことにしなければならない。 だって公私いずれの事柄も、こういう人々があって始めて片がつくのだから。 我々の霊魂の最もくつろいだ最も自然な態度こそ、最も立派な態度なのだ。 最も無理のない仕事こそ、最もよい仕事なのだ。 ああ知恵は、これによってその欲望を自分の力に相応させる者のために、いかによい奉仕をすることであろう! これくらい有用な学問はないのである。 「各々その力に応じて」とは、ソクラテスがしばしば繰り返した好みの句であり、はなはだ含蓄のある言葉である。 我々の欲望は、最も容易な手近な物事にむけなければならない。 わたしの運命がわたしを結びつけた・そしてそれがなくてはわたしが生きていかれぬ・数千の人々と仲たがいをしてまで、わたしとは身分のちがう一人二人にかじりついたり、わたしにはとても手のとどかない物をむやみに欲しがったりするようなことは、愚かな心根ではなかろうか。 どんなきびしさも 苛 ( いら )だたしさも嫌うわたしの悠長な気風は、容易にわたしから人の嫉妬や怨恨を防いでくれよう。 愛されることにおいて、とはあえていわぬが、決して憎まれないことにおいて、誰もわたしにはかなわなかった。 けれどもわたしの交際の冷淡さは、当然わたしから多くの人々の親切を奪った。 彼らがわたしの冷淡を別のもっと悪い意味に解したのは、無理もないことである。 わたしは稀な床しい友愛をえ、またそれを長もちさせることが、はなはだ上手 *である。 なぜならわたしは、自分の趣味にかなう交友を大きな 饑餓 ( きが )の心をもってとらえるからである。 わたしは一向専念にそれに向って突き進むから、容易にそれと結びつき、わが目指すものに感銘を与えずにはおかないのである。 わたしはしばしばそれに成功して見せた。 だが普通の友愛にかけては、わたしはむしろへたで冷淡である。 まったくわたしは、生れつき帆に一杯の追風をうけなければ動き出さないのである。 それにわたしの運命は、若い時分からわたしをただ一つの完全な友愛に慣れ親しませて、正直のところある程度までわたしに平凡な友愛を忌みきらわせたばかりでなく、友愛はあの古人〔プルタルコス〕がいったように、一匹飼うべきものでたくさん飼うべきものではないということを、深くわたしの心に刻みつけていたのである。 しかもわたしは生れつき、自分を半分だけ・そして修正して・伝えるのが苦労である。 あの数ばかり多くて不完全な交友関係においてはどうしても守らねばならない・あの屈従的な・また疑いぶかい・用心をするのが、わたしにはとても苦手なのである。 ところがこんにちは、特にこれが要求される。 今や危険をおかして言うか・いつわって言うか・するより他には、うっかり噂話もできない御時世なのである。 * ラ・ボエシのみならず彼は幾多のよき友人にめぐまれていた。 彼の隠棲は隠者の庵ではなく、教養ある紳士淑女のサロンでもあった。 彼はルソーのような孤独なる散歩者ではなく、相当な社交人であり座談の面白い人であった。 だがいうまでもなく、わたしみたいに自分の生活の安楽ということを(もちろん本質的安楽のことであるが)究極の目的としている者は、こういう気むずかしいデリケートな気分をペストのように避けなければならない。 わたしは数階建ての霊魂 *、すなわち緊張することも打ちくつろぐこともできる霊魂、運命にどこへ連れていかれてもそこ **に安住できる霊魂、おとなりの御主人と建築・狩猟・訴訟・などについて語りあうことができるのみならず出入りの大工や植木屋とさえ喜んで話のできる霊魂を、たたえたい。 わたしは自分のお供の中の最も卑しい者にまで慣れ、自分の供回りに打ちまじって談笑することのできる人々を、羨ましく思う。 ** 言いかえれば、「随所に主となる」ということであるが、これは後出第三巻第十二章(一二一一頁)にも、ホラティウスの句に託して述べられている。 嵐いずこの岸辺にわれを吹き寄すとも、われはそこの客とならん。 (c)「召使に対しては常に主人らしい言葉で話せ。 下男下女いずれに対しても冗談をいうな、 馴々 ( なれなれ )しくするな」というプラトンの考えは我が意を得ない。 まったく以上に述べた理由を別にしても、こういう運命の特権をあまりにふりまわすことは、非人間的で正しくない。 主従の間にそんなに懸隔をおかない家風こそ、最も公平であるとわたしは思う。 (b)他の人々は精神を高くあげ高ぶらせようと骨を折る。 わたしはそれを低く下げ平伏させようとする。 そ *れが悪くなるのは、ただひろがるときだけである。 (ホラティウス) だから、ちょうどラケダイモン人が戦争にでると、その武勇が無鉄砲や狂暴になることを恐れ、節制と微妙な笛の調べとを用いてそれをやわらげなければならなかったように(これに反して、他のすべての国民は、かえって強く鋭い音や声を用いて兵士たちの勇気をいやがうえにもあおり立てたのであるが)、我々もまた、一般の流儀には反するけれども、やはり精神の使用に際しては、多くの場合翼よりは 錘 ( おもり )を、熱心興奮よりはむしろ冷たさと静かさとを、必要とすると思う。 特に物のわからぬ人々の間で独りわかったようなふりをしたり、いつも大げさな物言いをしたり、 小楊枝 ( こようじ )の先でつつくような (原文イタリア語)ややこしい物言いをしたりするのは、はなはだ愚かなことであると思う。 むしろ相手の人たちによって調子をさげなければならない。 時には無知も装わなければならない。 誇張と技巧とはしまっておきなさい。 普通の場合は秩序さえ失わなければ足りるのである。 それに、もし相手が欲するならば、地べたをもはいなさい。 (ユウェナリス) そして、行きあう誰を証人に立ててもすむべき事柄のために、ことごとしくもプラトンや聖トマスを引き合いにだす。 彼女たちの霊魂の中まで達することができなかった学説は、ただ彼女たちの舌のさきに残った。 よく生れついた婦人たちは、もしわたしの言葉を信じて下さるならば、ただ女性に特有な天与の資質を発揮なさるだけで満足なされるであろう。 世の婦人たちは、借り物の美の下にその本来の美をおおいかくしている。 借りた光で輝こうとして自分の輝きをおしかくすのは、まことに愚かなことである。 彼女たちは技巧の下にうずもれている。 (c) 全身紅・おしろい・にまみれたり (セネカ)。 (b)これは彼女たちがみずからを知らないからである。 世に女ほど美しいものはない。 ところが彼女たちは、かえって技巧の方を尊重しお化粧ばかりする。 一体彼女たちは何が不足なのか。 愛され敬われて生きればよいはずである。 そのためには、彼女たちは十分に持ち十分に知っている。 ただ彼女たちのうちにある性能を、少し呼び覚ましあおりさえすれば足りるのである。 わたしは彼女たちが、修辞学や法律学や論理学や、その他これに類する・彼女たちの必要に対しては何の役にもたたない・いろいろな薬味薬種をひねくっているのを見ると、ふとこんな疑いがおこる。 「けっきょく男たちの方が、そういう種類のことで彼女たちを 牛耳 ( ぎゅうじ )ろうという下心から、ああいうことを勧めているのではなかろうか」と。 まったくこんな風に考えるよりほかに、彼女たちを弁護する方法があるだろうか。 彼女たちは我々のご厄介なんかにならずに、ご自分の眼の色を陽気にも・ 厳 ( いか )めしくも・やさしくも・することができれば、その「いやぁよう!」につれなさをも・ためらいをも・好意をも・ 按排 ( あんばい )することができれば十分なのだ。 そして、言いよる人の言葉が註解者なしで理解できればそれで十分なのだ。 これだけの学問さえあれば、先生たちをも学校をも、心のままに指図し従えることができるのである。 だがしかし、彼女たちが何事にかけてもわれわれ男たちに譲歩することをいやがるならば、そしてただ好奇心から書物を読みたいというのならば、詩こそ彼女たちの要望にふさわしい慰みである。 それは気紛れで・こまかな・お化粧された・おしゃべりの・芸術で、その面白さといいその美しさといい、彼女たちにそっくりである。 彼女たちはまた、歴史の中からも様々な利益をうけられるがよい。 哲学の中では、その処世上に役立つ部分から、我々の性質性格を判断し・我々の裏切りを予防し・自分の軽率な欲望を調整し・自分の我儘を抑制し・人生の喜びを長くする・ように、またしとやかに雇人の不実や夫の放蕩や己れの老衰凋落のやるせなさなどに堪えられるように、自分たちを鍛練してくれるような論説を選びとられるがよい。 学問の中でわたしが婦人たちにお勧めするものは、せいぜいこれ位である。 世には閉じこもって出ない・独りぽっちな・生れつきの人々がある。 だがわたしの本性は、何もかもさらけ出すことにむいている。 わたしは全く見かけっきりのあけすけな男で、生れながら社交向き友愛向きにできているのである。 わたしは孤独を愛しそれを説きすすめるが、それはただわたしの思想と感情とを自分に向けるためである。 わたしの歩みを局限するためではなくて、わたしの欲望と心配とを制限するためである。 ひとのために心を労することをきらい、屈従と束縛とを死ぬほど憎むからである。 (c)人間が多いのを避けるのではなくて雑用がふえるのを避けるのである。 (b)場所が寂しいと、本当に、わたしの心はかえって外に向って伸び広がる。 ただ一人でいると、とかく国家の問題や宇宙のことなどを考えてしまう。 ルーヴル宮や群衆の中にいると、わたしは自分の殻の中に閉じこもる。 群衆は外に出ようとするわたしを押し返す。 実際、礼儀正しく畏れかしこんでいなければならない場所にいるときほど、狂おしく・遠慮なく・独りで自分を思うことはないのである。 我々の狂愚はわたしを笑わせない。 笑わすのは我々の小ざかしさである。 性格上わたしは賑やかな宮廷がきらいではない。 わたしは一生の一部をそこに送った。 ただそれが間を置いてであり、わたしの気のむいたときだけならば、おえら方の間にまじって愉快に振舞うこともできるのである。 けれども先にお話したあの柔弱な考え方が、いや応なしにわたしを孤独に結びつける。 自分の家においてさえ、家人も大勢おり・客の出入りもはなはだ多い・この家の真中にいながら、わたしは孤独である。 わたしはここでいろいろな人にあったけれど、わたしが心から語りたいと思う相手はまれである。 それでわたしは、わたしのために、また人々のために、類のない自由を保有している。 わたしの家には挨拶とか接待とか見送りとかいうような、我々の礼法が命ずる窮屈なことは一切ない(おお、これほど屈従的な厄介な作法がまたとあるかしらん!)。 各人はここで思いのままに振舞う。 あるいは独り自分の思いにふける。 わたしの方でも黙っている。 夢みている。 自分のうちに立てこもっている。 あえてお客様がたの邪魔をしないで。 わたしが親交を求める人々は、世間で「上品で有能な *人」と呼ばれる人々である。 これらの人々の面影は、わたしに他の人たちをきらわせる。 だがよく考えて見ると、それは我々の間で最も稀な人々、我々がもっぱら自然に負うところの人々である。 この交わりの目的は、ただ親密になり、往き来をし、語りあうことである。 つまり霊魂の鍛練のためで、その他には何の果実も期待されないのだ。 こうした同士の会話では、主題は何でもよいのである。 そこに重味がなかろうと、深味がなかろうと、どうでもよいのである。 優雅と適切さとがいつもそこにあるからだ。 すべてがそこでは成熟した変らない判断の色を帯びているし、好意と率直と喜悦と友愛とをまじえているからだ。

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